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2013年8月30日金曜日

素敵な90歳


長野方面に休養に行った。その序でに亡父の従姉妹のおばさん(という呼び方しかできない)に久しぶりにあった。電話をすると、分かりにくい所なので迎えに行きますと言う。老人に負担をかけては申し訳ないと遠慮すると、「クルマで簡単ですから」とおっしゃる。何か不思議な雰囲気。

ともかく着いてみると、どうしたって70代にしか見えないおばさんが道に立って待っている。元気な様子に嬉しくなって挨拶を済ませると、菓子や畑で朝とったトマトやスイカなどを次々に振る舞ってくれて一向に座ろうとしない。そこで話しをしてもらうことにしたら、これが絶倒ものの面白さで、今度はこちらが打ち切るのが難しくなった。

以下は、そのメモの一部:

二十歳で結婚しました。戦時中で、時節柄、喪服で結婚式。結婚式や新婚旅行だけで、その後一緒に暮らすこともなく、亡くなられてしまった、友達も大勢います。

夫は、小さい頃に近所に来たサーカスのロバに乗っていたいとねだると、親がそのサーカスからロバを買ってくれたような育ち方をした人でした。新婚旅行は大名旅行でした。

でも仕事をしないし、できない人でした。仕事して、お金を稼いで、それで家族を養っていくということがすっぽり抜け落ちてしまっている人。でも、それはそれはとても良い人、友達みなから、良い人と言われていました。

結婚していた間、私は一度も給料袋を見たことがなかった。給料袋など、持って帰らなかったの。使って、多少余った時には、お金をくれたけれど、それはたまのことでした。

20年間に10回引っ越しをしました。住まいを売ってはお金を作っての生活:その都度、前より小さな家になりました。それでも最後はN駅そばの約50平米のアパートで、これが残っただけ良かった。ここからはもう、移らなかった。

子どもが遠足でお弁当を持っていかなくてはいけないから、お金が要るといっても、お金がなくて、家に帰ってこなくなってしまうような人だったから、仕方なく、結婚のときに実家からただ一つもらったアレキサンドリアの指輪を、わざわざ遠くの質屋まで行って質に入れてお金を作ったりして。それを持っていくと黙って3千円だしてくれるのが、分かっていたから。それで遠足のお弁当に使う卵、そのころは一個25円のを、一個二個と買ったりしてお弁当を作ってあげました。

いま、クラス会をすると「あなたはお金持ちと結婚したから」と言われるけれど、内実はこんなもの。

46歳で後家になった。
その前にも夫が出張などでいない時に速記の勉強をしてました。私が稼げば絶対に仕事をしなくなる人だから、彼がいる間は、仕事はしなかった。彼の死後に、速記で仕事していくことにしました。

速記の仕事をしていた時が私が一番、私らしかったとき、輝いていたとき。
大平さんが夜遅く帰る(国会審議から)のを待って、それからインタビューを行って、その帰り道、吊り革広告に記事の広告がすでに出ていて、その速記を徹夜で起こして、持っていくとすぐ記事になり、二三日後には本になるような、そんな状態だったの。

その頃の有名人の取材が次々ありました。今日出海、柴田練三郎、「四畳半襖の下ばり」の(野坂昭如)、、、ずいぶんたくさんの有名人に仕事柄会いました。面白いことばかりでした。ユーリーゲラーは、入り口を入る時に「女性から」と言ったのでそれまでそんなことをしてもらったことがなかったからびっくりしたわ。

フリーで、文春などの週刊誌の仕事をしてました。徹夜の仕事が続いたりして、無理を重ねて、腱鞘炎になってしまって、どうにも速記を続けられなくなってしまった。速記ができなくなったので、NHKの朗読の講座で勉強して、資格を取って、国会図書館で視覚障害者のための本の朗読を吹き込む仕事をしました。
私の50代は速記、60代は朗読。

70になったときクルマの免許を取った。
実家の母の所にくると、焦がした鍋が納戸にいくつも重ねてある。角の金物屋から買ってきては次々に焦がしている。来るたびに数が増えて、山が高くなっているわけ。「こりゃダメだ」と思って、こちらに来て介護することにしました。
A(長女)が此処を探してくれて、丁度バブルになる前だったけれど、此処なら***で買えたので。ここは八ヶ岳もアルプスも見えてとても良い所。

ところが、当時は団地の中まではバスが来ていなくて、谷を越えて遠くのバス停まで行って、日に何本かのバスにやっと乗って駅に行くと電車は数分前に出たばかり。やっと本町の家(実家)に着いてももう11時。それから昼食を食べさせたり、色々をしても帰りのアシの問題で、2時頃には帰らなくてはならない。これでは何もしてやれなくてダメだと思って、クルマを運転しようと思った。

年寄りに運転を教えてくれるところは東京の**にしかなかったので、月に2回**に行って1年かけて免許を取りました。仮免までいってもなかなか合格しない。バックでの車庫入れがうまく行かない。縦列駐車はできる。「どうしてあなたは合格できないのだろう」というから、(私の)体が小さくて後ろが見えていないんですって言って、、、ですから、今でも座席にはクッションを敷いて運転してます。

合格したとき「本日の最高年齢のかたは70歳」と言ってもらって、、、でも書類に昭和12年てあるの。昭和でしか作ってくれない。「私は大正です」というと事務の人はびっくり。

事故は何度かありました。
前のクルマが動かないので、横を抜けようとしてバックに入れているのに気づかずに後ろのお宅の庭に突っ込んでしまったり、
渋滞の時に急に前のクルマが順々に止まっていって玉突き。わたしは最後のクルマだったけれど、ああいうときは最後のクルマの責任になるらしい。

冬でも道路は雪をかいてくれてあるので、運転できます。
高速道路は対向車もいないから運転しやすいのだけれど、運転してはいけないと子どもに言われている。それでも時々はね、、、

母の介護をしていた時に腰を痛めてしまった。母の下着を脱がせようとしていた時、後ろにひっくり返ってきた母と一緒に倒れてしまった。母の方が私より大柄だったから。下敷きになって大腿骨が潰れ、脊椎も5つ潰れてしまったの、、、

この大腿骨を手術しようとした時、脚より心臓の方を急がねばならないと言われて、心臓の手術をしました。気づかずにいたのが、狭心症の症状があったということで、血管が非常に細くなっていたというのです。左心房に不整脈もあって、カテーテルを2つ入れています。血圧は上が220、、、

脚は、大腿骨は人工股関節です。湘南の**で手術して、毎年検査してもらっている。今年で9年目。もう(検査は)いいと言ってもらえるとおもっているのだけれど、

今年も逗子にホテルをとって検査をしてもらって、Nに寄って、東京でパスポートの更新をして、「5年にしますか、10年にしますか」というから10年にしてもらいました。天国へのパスポートと言って。

腰椎が潰れているので、痛みがあります。家の中では杖なしで済むようになりましたが、私もオバアさんになったので長い距離は歩けません。

私が一番、丈夫な母(105歳まで生きた)の体質を受け継いだのだと思う。今50KG ちょっと超え。この間、妹は37kgと言っていた。兄は、母より先に逝ってしまったし、、、