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2013年5月16日木曜日

マンケルの小説と橋下妄言

柳沢由美子さんの訳で創元推理文庫から出ているヘニング・マンケル8作品を、とうとう読み終わってしまった。思想信条が共鳴できる同世代の人が書いているためだろうか、スティーグ・ラーソンの『ミレニアム』よりも味わい深かった。

30年前に楽しんだマルティン・ベック・シリーズのときとはかなり違う。スウェーデン社会が変わっただけでなく、その中での人々の良心のあり様も変わってきているのだろう。しかし、描かれている人々はいずれも社会へのまなざしを閉じず、真面目に働いてしまう人たちである点は変わっていない。万事について私事の世界に回収される傾きが強くなっているこの国とは大きく異なる。社民党政権半世紀の文化的成果か。

橋下がまたまた下劣な放言をしたところ、それが米軍相手でもあったため、今度ばかりは彼にすると地雷を踏んだ結果になったようだ。参院選挙前に米国詣でしてハクをつけようとしたアポは一挙にキャンセルされ、米国政府・軍は安倍・橋下に「極右を売リにはしゃいでいる限り相手にしない」という引導を渡すことになるだろう。

こうした米国側の反応もあってか、これまで橋下のデタラメに抵抗し批判してきた人たちからだけでなく、仲間内からも「批判」がたかまっている様子だ。参院選で改憲連合が勝てる見通しが折角たっているのに、ここでミスをするなということであろうか。とち狂っているのは石原御大だが、したたか橋下本人は少しずつ釈明したり、「対話」による巻き返しを図っている。そのどれを見ても彼が放言の内容を反省したり否定していない確信犯であることを明らかにしてくれている。猪瀬閣下と同様である。

橋下妄言の要点は、「オトコの性的欲求は解消されなければコントロールできない」と断定した上で、女性をその「解消」手段と捉えていることだろう。いわゆる従軍慰安婦を現在も容認しているような発言をしたかどうかとか、米軍に「風俗業」活用を薦めたことが適当かどうかとか、世界各国も同じことをやっていたのに日本だけが非難されるのはおかしいという開き直りが妥当かどうかは瑣末な論点である。

橋下はそうした枝葉末節は論点については、これまでの彼の行動様式が示してきたように、コロコロと言い換え、あたかもそのようなことは言ってもいないかのように言募るだろう。それでもしかしこの妄言の要点は残され続ける。それはこの要点を支える性意識が、現在の日本社会で若者を中心に広まっているからだと思う。橋下はすき好んでわざわざ顰蹙をかう危ういことを喋っているわけではない。「オトコはしたいのが当然」と考える若者は、(ぼくの周りにいる学生を通してみる限り)男性だけでなく女性にも明らかに増えている。そこに彼をしてこのような妄言を繰り返させる背景がある。

マンケルの小説が取上げるテーマの一つは、この男性による女性の人間性の否定である。描かれる残虐な殺人事件もそうした男性からの暴力に対する女性たちの復讐であったりする。日本と比べ格段に女性の社会的地位が高いスウェーデン社会でも、なお女性に対する暴力が根深く残っていること、その底には暴力を振るう男性たち自身も資本制社会のなかで人間性を阻害されていること。こんなことを彼の小説は考えさせてくれた。

ともあれ、米国にきっかけを与えられたとはいえ、折角の敵失の好機だ。優しいこの国の人々はこの機会を活かせるか?

2013年5月9日木曜日

誰が得をするか

8日の「人民日報」に、沖縄の帰属問題(琉球問題)は「再議できるときが到来した」という論説が載ったという。なぜこのタイミングでこのようなどぎつい論説が出たのか。「人民日報」といえば中国共産党の機関紙である。

その前日7には、中国銀行が北朝鮮の外国貿易関係銀行との取引を停止したと報じられた。北朝鮮にとってこれはかなりの打撃になるだろう。ところで、日本では「北朝鮮との関係で中国は国際社会と足並みを揃えたのに、なぜ日本に対しては無理を言募るのか。やはり日本をバカにしているからではないか」といった受取り方もあるようだ。

ポイントはこの「人民日報」論文は、6日にアメリカ国防省が議会に提出した中国の軍事に関する年次報告の中の記述、すなわち中国は尖閣諸島に関して国際法にそぐわない straight baseline を不適切に引いていると記したことに対する反論として出されていることだろう。

この国防省報告では、日中の領土問題よりも、米国政府などのコンピューターが中国政府・軍から発するサイバー侵入を受けたことの方がずっと重く扱われている。このことに対する中国政府の反論もなされてはいるが、「人民日報」で論説を構える程のものにはなっていないようだ。

しかも領海基線がおかしいとの指摘に対して、沖縄の帰属も再議しろとの主張である。この「不釣り合い」はなぜか? 7日の対北朝鮮金融制裁を含めて考えると、米国が最も気にしている北朝鮮については歩調を合わせ米国政府を満足させておいて、日本との領土問題で強硬に出ることを容認させるといった暗黙の駆け引きがあると考えたくなる。

米国省は国省とは異なり、一貫して日中の領土問題で米国はいずれかに肩入れする特別の立場をとることはないとしている。それにまた「沖縄にも中国が攻めてくる」となれば、沖縄から米軍基地は出て行け等と言われなくて済むようになるのではないか、とくらいに国防省(軍)サイドは思っているのではないか。米中両国の軍レベルにとって尖閣=領土問題が荒れることは、仕事をふやす上でも願ってもないおいしい話しなのだろう。

2013年5月4日土曜日

「狼が来た」のか?

憲法記念日を前に何人かの友人から現在の改憲動向を批判するブックレットを送ってもらった。憲法を支えるのはつまるところ普通の人々だと信じている僕は、義務教育修了レベルで読めるこの種のBLが出ることは良いことだと思っている。そしてまた、儲けにもならず、研究業績として評価もされないこうしたBL作りに力を割くことには「忙しいだろうに偉いなぁ」と感じ、少なからず敬意を払ってもいる。

(と行儀正しく挨拶をしておいて)しかし、首を傾げてしまったのは、もらったBLの2つが、昨年春に出された自民党の改憲草案批判にかなりのスペースを割いていることだ。問題になっている96条改憲の先に来るのは、この草案に示されたような明文改憲だと想定しているらしい。そうだろうか?

昨年の自民党改憲草案は、9条改憲だけでなく、「天賦人権説に基づく規定を全面的に見直した」として、「公益及び公の秩序」を人権より優越させ、個人の尊重(13条)を「公益及び公の秩序に反しない限り人として尊重する」と変えたり、「家族は互いに助け合わなければならない」としたりするなど、時代錯誤だと思われる代物だ。


昨年春これが出されたのは、近づいた総選挙に備えて、政権交代によって右に寄る格好で痩せ細ってしまった同党の支持者たちの意識に合わせて同党の2005年「新憲法草案」を変える必要があったためだろう。こんなレトロ趣味のもので改憲多数派が作れるとは同党の指導部も思っていない。その証拠に、総選挙前にはサイトのトップから直ぐに見ることのできたこの草案は、年が明けるやすぐにトップページから外された。それも党の政策の概要を紹介する「政策」欄ではなく「党の政治活動の模様紹介、総裁など幹部の記者会見、部会や各プロジェクトでの活動などをニュースや動画・写真伝える」という「自民党の活動」のページの中の、「自民党の今がわかる、最新トピックス」を紹介する「コラム」欄という片隅に押込められてしまったのだ。


自民12年改憲案が本命ではないとぼくに再確認させてくれたのは、昨日5月3日の「日経」だ。その社説は、憲法で「家族のあり方を規定しようとするのは近代憲法とはちょっと違った発想だ」と釘をさし、「明文改憲だけで国家がうまく回るわけではない」としている。この国の経済エリートの意向代弁を使命としている「日経」にそっぽを向かれるような改憲を自民党がすすめるわけはないではないか。

復古的改憲案を叩くのはやさしい。そして50年代の明治憲法復古志向の改憲が原像のように焼きついている年輩の護憲派市民(9条の会の集まりの高齢者比率は平均7割を超えると言いう)には、「狼がまたやって来た!」と分かりやすく、また奮起を促す効果もある。しかし、遠吠えする狼ばかりに躍起になっている間に、狐などが入り込んで食い荒らすのを見逃すようでは間が抜けた話しだ。


2013年5月1日水曜日

どこからが富士山?

富士山はその裾野のどこからを富士山というのか? 一合目に立って「ここも富士山だ」とは余り言わない。二合目あたりでは、そういえば山頂に向かって傾斜があると感じられるかもしれない。しかし、「ここは富士山だ」というのは大袈裟な感じがする。三合目くらいまで来ると富士山に登っているのだという気分もしてくる。さて、どこからを富士山というのか。

量の変化が質の変化になる境は判然としていないことがある。ぼくの授業では、その例として「富士山はどこから」問題を挙げてきた(これでも受けないときは「禿はいつから」問題を使う)。

世界遺産報道を聞いて苦笑した。北富士演習場と東富士演習場は、富士山には含まれないのか。始終やっている砲撃演習は山岳信仰の儀式だとでも言うのか。

ここ数日の気象の変化でPHNが辛くなっているせいか、ぼくはどうも意地悪になっているのかもしれない。