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2013年4月30日火曜日

知事自らぶっつぶす

2020年オリンピックの東京招致は、猪瀬都知事自身の夜郎自大な妄言によって吹っ飛んだ。

NYタイムズの記事を読むと、問題になっている「イスラム諸国はけんかばかりしている」だけでなく、あぜんとすることを語りまくっている様子がよく分かる。曰く、「貧しかったら子だくさんになる」、「トルコの人たちも長生きがしたいでしょう。そう望むなら彼らも私たちが日本で持っているような文化を作るべきです」。更には、サミュエル・ハンチントンやロラン・バルトをつまみ食いして、日本はユニークであり、東京はその中心に皇居をもっているがために格別な都市である等と盛り上がっている。日本語が堪能な記者や通訳がいたことからリラックスして気楽に本音を喋りまくったというところだろう。

この報道が問題になるや猪瀬は、まず「真意が伝わっていない」と記事を非難して居直り、NYTの記者から「誤訳があったとは認識していない」と反論されると、たちまち「不適切な発言があったことをお詫びしたい」とごまかした。インタビューの録音が出されるとまずいと気づいたのかもしれない。

「不適切な発言」は自分の意思によらず自然発生して「あった」訳ではない。「不適切な発言」は猪瀬自身が行なうことによってなされた。それを「お詫びしたい」のであれば、なぜ「不適切な発言」を自らがしてしまったかを自身が語らなければ詫びは相手に届かない。彼に詫びる気持ちは毛頭ない。

立候補しているの都市の社会やインフラが魅力的なら、招致運動の先頭にたつ政治屋の知性と品性がうんざりする程であっても、似合いもしないアルマーニを着込んでふんぞり返っていてもそれは大して消極材料にはならないのかもしれない。しかし、この猪瀬は選挙で圧勝して当選した知事なのだ。選挙で彼を支持した人が何と334万いるのである。IOCの開催地選考規則に違反しているかどうかよりも、この事実の方で引いてしまうIOC委員は少なくないのではないか。良くやってくれました。


「官」は偉いのか?

NHKニュースを聞いていたら「今回の叙勲では民間から***人が」と言うのが聞こえた。勲章などをもらいたがるのは、そのほとんどが現役を退いて、かまってくれる人も少なくなり威張る機会も減って寂しくなったような爺さん・婆さんではないのか。念のため朝刊に何ページも使って並んでいる肩書きを見ても現役は極めて少なく、大部分が退職者だ。退職してまでも「官」なのか? ランキングを見ていると、どうやら「官」であった者の方が同じような仕事をしていてもランクが上の勲章をもらうらしい。バカバカしい限り。

昨日の「主権回復の日」政府式典では、天皇が退場し始めた途端に「天皇陛下万歳」の声があがり、壇上にいた三権の長を含めほぼ全員がこれに唱和したという。極右坊やの安倍はともかく、最高裁長官まで両手を挙げたというから何ともみっともない話しだ。「官」とは他ならない天皇の「官」であるという程度の意識か。

2013年4月28日日曜日

バカ丸出しと言ってよいものか?



「主権回復の日」と称して政府は記念式典を行った。

1952年4月28日に発効した講和条約(いわゆる平和条約)第3条では北緯29度以南の沖縄・奄美などが米国の支配下に切り離され、同じ日に発効した旧安保条約には「大規模なな内乱・騒擾」の際の米軍出動も定められていた(序でに言うと安保条約に付随した行政協定には今日に至る米軍の刑事裁判権などの治外特権も規定されていた)。

この2つの条約はワンセットで、戦後における日本の米国にたいする従属の基本枠組みを据えた。条文を読み、事実を見つめればこれは誰もが否定できないことである。それを言うも言ったり「主権回復」だと。これをバカ丸出しという。この国の右翼ゴロツキが骨の髄から対米従属でなければ生きていけないことが良く現れている感じがする。

今日の『日経新聞』は、コラム「春秋」「社説」も至極まともであった。常日頃は商機一点張りの新聞も、さすがに安倍内閣の極右ぶりには正気を失えなかったのだろう。

それはそうと、記念式典に引っ張りだされた天皇はどんな顔をしていたのだろう。テレビを見ないとこういう時に不便ではある。


2013年4月26日金曜日

「国のため」のため

安倍首相が閣僚たちの靖国参拝について「国のために尊い命を捧げた英霊に尊崇の念を表するのは当り前のことだ」「わが閣僚はどんな脅かしにも屈しない。その自由は確保している」とぶちあげたそうだ。内閣支持率が上がっていることもあり、気分が昂揚しているのだろうか。首相就任直後、アメリカ政府は、いわゆる従軍慰安婦について本音を喋るなとわざわざ注意していたが、またぞろ北朝鮮政権の挑発が膨らんでいる時なのだから改めてご指導でもあるまいと判断していたのだろうか。

どんな死も辛く悲しい。非業の死、不条理な死、追い込まれ強いられた死(アジア太平洋戦争における日本軍兵士の死の6割は餓死であった)は、本人にとってだけでなく、本人に連なる残された人々にとっても狂わされるほどの重さをもつ。「なぜ死んだ?」、「どうして死ぬまでして!」納得できる答えもなく、合理的な説明も届かない。その苦しさの中に「国のために」が降ってきて苦しんでいる心を掬いとっていく。

人々の心を掬いとった途端にこの言葉は居直りに転用される。火付け、強奪、爆撃、強姦、殺戮、どんな非道なことであろうとも、この言葉によって聖なるものとなった死を後ろ盾として正統化され美化される。この言葉のためにどれだけ事実から目がそらされていることか。この言葉はゴロツキの言葉である。