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2012年11月30日金曜日

歳をとること

歳をとると、歳をとったならではの色々なことがある。思いがけないことに振り回されている。「何しろ初めて65歳になったものだから、、、」と切り出したら、学生たちは笑ってくれた。

昨秋からこの春まで帯状疱疹の後遺症に悩まされた。この秋も出てくるのかと戦々兢々としていたら、あのクソ暑さが終わり気温が下がって過ごしやすくなった途端に、案の定「ご無沙汰しています」とばかりに出てきた。帯状疱疹に罹った腰から足先までが冷たくなる。氷を流し込んだように(0°Cでもアルコールは凍って固まらない)冷えで痛い程になる。のみならず僕の場合はアタマが重くなる。霧か靄でもかかったようになり、重くなると目眩も出てくる。その出現の仕方を観察していても法則性が掴めない。


こんな案配だから要するに、以前のようには仕事も生活もできないのである。ではどうすればよいか。どのようにすれば仕事や日々の家事ができるのか。これを考え、見直しながら進むので手間がかかる。「大人になる」ことについての教育はこれまでもたくさんあった。どういうわけか、「こんな人に教えられてくないよ」と言いたくなるような人が熱心に教えをたれたりする。これに比べ、老人になることについての教育は少ない。すでに老人になった「老人の先輩」にはその経験や識見はあっても、それを伝える精神的条件、そして何よりも肉体的条件が乏しいからだろうか。

もっともキケロー先生やわがモンテーニュ殿は今の僕の歳まで生きることもなかったのに、老人になることについてしみじみと教えてくれている。要するに僕は馬齢を重ねてきたということだろう。だからだろうか。「団塊世代の老人たちは自分たちの*倍も余計に年金をもらえる。けしからん」と真顔で言っている若い人たちを見ると、その愚かさに腹が立ったりする。

「お前さんたちは将来、老人にならないつもりですか。一体、われわれの世代はお前さんたちの脛をかじってきたのですか。今老人たちを苛めれば、お前さんたちがジジババになったときには、もっと酷い目になるのではないですか」。こう言いたくなる。

働ける年齢世代にいる人たちの生活が資本の活動によって破綻したり、病気や事故のあと労働に復帰できないことは、資本にとっても困ることだろう。これに対して高齢者は、そもそも資本制の経済活動によってふえる存在でもないし、またその先の時点で再び労働者となる可能性もない存在である。そんな老人に資本制社会の仕組みが優しくなる理由はどこにもない。資本にとって老人に優しくすることはまったく余計なことでしかない。

そうである以上は、老人になっても人間らしく生活できるようになるためには、当事者自身が声をあげ、この資本制社会にこの要求を押付けていかなくてはならないのではないか。そして当事者とは現在の老人だけではない。将来の老人、つまり若い人も老人問題の当事者ではないのか。、、、きちんとしておかないと、老人のことはすべてかつてのように「親孝行」に押付けられ、若い人たちの生活は散々になりますぜ。