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2011年11月30日水曜日

ため息ばかり

大阪のダブル選挙には今更ながらにため息が出た。
これが現実なのだから嫌でもそのよって来たる所以を考えなくてはならないのだろう。

疲れるなぁと思っていると、昨今の皇室騒ぎで秋篠宮とかが、「いわゆる皇室の制度については、皇室典範があります。制度論については、これは国会の論議に委ねることになるわけで、私が何か言うということではありませんけれども、その過程において、今後の皇室の在り方を考えるときには、何らか、私しくは皇太子殿下の意見を聞いてもらうことがあって良いと思っております」と語ったとの報道があった*。

何様だと思っているのだろう。憲法の規定がなくても自分たちはやっていけると思っているのだろうか。憲法も随分にコケにされたものである。面倒なのは、彼の意見がおそらくは天皇制度擁護派の中でも「開けた」ものであることが多いことだ。そうだとしても、現憲法上は、皇太子なり何とかの宮なりが、皇室制度の在り方を国会が決める過程で意見をいう立場にあるということはできまい。こんな発言がしゃーしゃーと記者会見で述べられ、それが流されることにまた溜め息。

* http://www.yomiuri.co.jp/feature/impr/20111129-OYT8T00783.htm?from=yoltop




2011年11月21日月曜日

疲れる

親しい同僚がひどく疲れた顔をしていた。尋ねると、卒論を指導している学生から一時帰郷すると聞かされたという。身近で不幸があったためではない。3月になってからでは就職後に着るスーツを買う時間が取れないので、今のうちに買いたいので親元に帰ると言うとのこと。11月も下旬になっている今は、卒論も追い込みの時期である。余りにおかしいので、少し問いただすと実は親と家族旅行に行くためと打ち明けたという。


「君たちの人生の知的水準は卒論の水準で決まってくる。君たちは卒業後の人生でおそらく卒論のような論文に取り組むことはない。だから卒論は卒業後には役に立たないと思うかもしれない。しかし、第一に自分で何が問題か、問いをきちんと立ててること、第二にその問いに答えるために、先ずこれまで明らかになっていることを踏まえたうえで、第三に自分が新たに立ち向かっている問題について調べ、情報を整理し、第四に自分の問いに対する答えを探ること。そして第五にこの問いに対する答えを誰にも分かりやすく書いて伝えること。こうしたことは、大抵の仕事でも求められる作業と変わらない。

仮に卒論が社会に出てからに仕事に直接に役立たないとしても、卒論に取り組むことによって初めて君たちは大学での勉強の全体を自分の頭の中にまとめあげて自分のものにすることができる。卒論に一生懸命取り組んだ先輩たちは、書き終えた後では顔つきも変わって卒業していったし、その後もそれぞれの仕事を生き生きとしている。自分と自分の人生を大事にしたかったら、今ここで卒論に全力を傾けよう!」


こんな激励を僕も学生たちにしてきた。この同僚は「卒論なんか大学の先生たちの嫌がらせくらいしか考えていないんでしょう。大学も馬鹿にされたものですよ」という。疲れさせてくれる話だ。それにしても20代前半の若者が親と家族旅行とは。そんなものに付き合う若者は単に幼稚だけなのか。それにして、親もほとんどお病気ではないのか。ひどく疲れる。



2011年11月2日水曜日

努力しないための努力

人に読んでもらうために書いているこのブログには、他人の悪口や否定的に考えざるを得ないことは書かないように努めてきた。しかし、限度に来たようだ。嫌な辛いことが続く時でも、どこかに楽しいこと嬉しいことを見つける。そのための訓練だとも思ってきた。て書く。けられるあっても、ブログを止めるか迷っている。


後期の授業が10月から始まった。毎回初めの例で、学生に「今、重要だと思っている社会問題」「今後重要になると思われる社会問題」について書いてもらった。年々、書かれる内容がボロボロになって行く。今回は改めて、この下降傾斜が一段ときつくなったことを否応無しに感じさせられた。


「年金制度が変わるらしいが、そんな歳まで自分が生きられるか分からない。生きていたとしても、もらえるとは思えない。だから自分たちには関係ないことだと思う」、「世界の人口が70億人になって食料資源の枯渇や貧困や格差拡大が深刻になっているというけれど、自分たちはそんなに困っていない。あと30年くらいで100億人になるというけれど、その時にはどうなっているのか分からないのだから、いま騒いでも仕様がないと思う」、「若者の就職が厳しいのは、ずっとそうなのだから、アメリカやヨーロッパのように騒いでも仕方ないと思う。国の借金もひどいのだし、地震や原発のことがあったんだから、無駄づかいを止めるしかない」等々。


僕が接している学生の殆どは、今の社会が良いとも思っていない。そして、世の中が良くなって行くとは思っていない。そして、社会が人々の意識的な働きかけによって変わるとも思っていない。力を合わせて努力するなどということは、殆ど何か妄信にとり憑かれた狂信的信仰に似たものだと感じてかのいるようだ。少なくとも社会の改革に向かって自分たちが努力することはしたくない。満足もしていないが、変わらない以上、不満をかかえても「仕方ない」と達観し、専ら関心は現状への適応の中にのめりこんでいく。

中には「偉い人」や「ヒーロー」への期待をそれとなく口にする者もいる。しかし、それは少数で、大多数の関心は、希望や夢、期待を持たずにどうやって自分は生きて行くのか。他者と関わらず、他人に負担を与えず、毎日をともかく過ごして行くか。こんな辺りにあるようだ。

このひと月、定年を1年半後に控えているためか、僕は学生たちのこんな社会的構えのありようにいささか参ってしまっていた。