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2011年10月5日水曜日

木を読む


林以一『木を読む 最後の江戸木挽き職人』を読んだ。とんでもない本だった。このところ樹木にのめっている僕は一気に読んでしまった。


この林さんは1929年の生まれで、戦後すぐから深川にあった木場で働いていらした方。60歳になってもまだ一人前と言いにくいらしい世界で、今でも現役で働いていらっしゃるらしい。


チエーンソーなら2枚しか取れない材から、大鋸で4〜5枚を切り出したり、直径2mもある材を数メートル挽いても数ミリの誤差も出さないという。木を見ただけで「これは千葉、あれは栃木」などとその産地(出というらしい)が分かるとこともなげに語る。そんな経験者でも、難しいのは良い杢を出すためにどのように切るかを決めることだと言う。さもありなんと思う。


困ったことには、この大鋸による木挽きの技術を受け継ぐ人が殆どいないらしい。この本に10年前に出会っていたら、職を投げ打ってこの世界に飛び込みたくなるような危機だ。


そう言えば、ときどき行く知り合いの家は50年代末に建てられた古屋だが、その二階の天井は、当時「もうこんなものは造れない」と言われたものとのことだった。改めて見上げると、なるほど素晴らしい杢の材が使われているし、欄間などの細工も素晴らしいものだった。

2011年10月4日火曜日

受動的暴力?


ニューヨークでは、貧困と極端な経済格差の進行に抗議して、9月中旬以来、Trinity Place の Scotti Parkに陣取って「ウォール街を占領しよう」「私たちはその他99%だ」という抵抗運動が続いている。
この運動を続けている人たち約1500人が、2日ブルックリン橋でデモをしたところ、約700人が逮捕された(約400人という報道もある)。この大規模逮捕がきっかけになり、これまでこの運動を無視していた大手の体制メディアも一斉にこの運動を取上げるようになり、また労組や著名人からの支援の輪も広がったらしい。日本でも報道されるようになった。

ロンドンでは (3.11 のために気付かなかったが)、3月26日に公共部門切り捨てに反対する50万人以上のデモがあった。マドリッドでは、市の中心にあるプエルタ・デル・ソル広場で約6000人による座り込み(保育コーナー付き)が、5月から約1ヶ月間続いた。
いずれもこの春の、カイロのタハリール広場での座り込みのように、非暴力での抗議の形をとっている。アメリカ合州国でも英國やスペインと同様に表現の自由、集会の自由は、人権として憲法上でも保障されている(有名な修正第1条)。それでも、公道のデモ、長期間にわたる公園の全面的使用となると、これを規制する手がかりになるような何らかの下位法令に引っ掛けられることがあるのだろう。規制の法的根拠となる法令がなくても、力でまさっている現場の警察官はデモを事実上規制するだろう。


デモ参加者が1500人なら700人なり400人なりの逮捕もできるだろう。そうNY市警は判断したのか。しかし、1万5000人のうち5千人は? 15万人のうち5万人は? これは物理的に難しい。では、5万人のうち5千人ならありうるか? これも難しいかもしれない。物理的に可能だとしても、社会的影響を考えるとかなりきわどい。700人の逮捕でもマスコミは無視することができず、世論は動いた。

これはつまるところ物理力と物理力との関係によって決まることなのだろうか。だとしたら、5万人の違法デモや違法集会から5千人を捕まえるのが難しい場合には、乱闘服を着て警棒に盾、催涙弾で身をかためた警察官ではなく、武装した兵士が戦車と共に包囲すればよいことになる。そうした例は、天安門事件を初めとして近年でも至るところであるし、日本でもそうした経験や対応の法的備えは既にある(メーデー事件、自衛隊法78条)

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ニューヨークでは何日にもわたる広場を使用すること、ブルックリン橋の車道を歩くことは、まったく法令に抵触しないのか。タハリール広場の占拠は当時のエジプトの法令に違反しないことだったのか。そうではあるまい。しかし、NY市警は広場から追い出していないし、出動したエジプト軍は発砲しなかった。プエルタ・デル・ソル広場の占拠は最高裁によって法令違反と判定されたが、警察は介入しなかった。

物理力では圧倒する警察や軍が暴力行使を控えたのはなぜか。デモや集会の参加者数が多いことだけではなく、そこに参加していない多くの人々もそのデモや集会を支持していたり、これを物理力で規制・弾圧すれば必ずや反発する多くの人々がいると予想できたからではないか。つまりこうしたデモや集会は、たとえ違法であってもそこで訴えられていること、その内容が支持されていることによって、警察や軍の法令違反を理由とする物理的規制をさせないことができたのだろう。

多くの人々が求めている事柄の正当性、そしてそれを体現するデモや集会への参加者の数の大きさが警察や軍の“合法的”規制を縛る。しかし、これは力の均衡でしかないだろう。一方では内容は正当でも現行の法令には違反するデモや集会、他方では現行の法令に基づく合法的規制。前者の力が弱まれば、たちまち大規模デモも集会でも、警察によって自在に規制され骨抜きにされる。

集会やデモの自由を拡げ、規制を少なくするには、後者の法的根拠を切り縮めていかなくてはならない。現在の力の均衡点を支えるためにだけでなく、規制の法的根拠を縮減し、剥ぎとっていくために、現行法令を事実上乗り越える行動が必要になるのではないか。

こう考えてくると、数千人をこえる大規模デモに予め逮捕されることを覚悟した相当数の者がいれば、そのデモはデモ規制のありようや法的根拠を変え、世論を動かす可能性をもつことになるように思われてならない。

この種の権利の実現の現場では、どうやら力と力との生の対決が現実をつくるところがあるようだ。これは68年世代のノスタルジーではないだろう。とは言え、こんなことが気になるのは、68年世代ならではのことかもしれない。としたら、近い将来の逮捕要員として「その日のために老人よ身体を養生しておけ」ということになるか。

http://stream.aljazeera.com/story/us-anti-corporate-movement-expands
http://occupywallst.org/
http://vimeo.com/29906321
http://democracynow.jp/video/20110407-1

http://www.usuncut.org/
http://democracynow.jp/video/20110328-3

http://www.youtube.com/watch?v=ar2nmOQZEjw
http://www.youtube.com/watch?feature=fvwp&v=sAmyc_TqO1c&NR=1
http://irregularrhythmasylum.blogspot.com/2011/05/blog-post_22.html

http://15october.net/where/


2011年10月3日月曜日

C'est la vie....

とうとう10月になってしまった。授業に追われ学生たちに悩む日々(!)まで、たっぷりとした時間があると思っていたこの「夏休み」があっけなく終わってしまったことに呆れる。月日の経過に緩急があるわけもない。一体何をやっていたのだろうか。暑さにくたばり、体調不振に参ってしまい、下らぬことに次々に振り回された。


いやそうではないだろう。こうして呆れたり、罵ったりするのは、健康であるのが本来の自分の姿であることを前提にしているからではないか。とっくにアラカンになった僕が、青年時代にそうだったかのようにいつまでも健康で頑強であろう筈がない。

僕は87年に訪れたワルシャワの博物館で、16世紀末から18世紀末まで続いたポーランド・リトアニア連合国のどでかい版図が掲げられていたのを見て自分が苦笑したことを思い出した。いつまでも若かった時を基準に考えるのは、“民族の栄光”とかを後生大事にするのと変わりはない。呆れたり、罵ったりするのは愚かしいことだ。こうしてまた木犀(桂花)の香りを楽しむことができていることを歓んでよいのだろう、、、しかし、、、