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2010年7月28日水曜日

この暑さの中で働くのはある種の犯罪?



ようやく体調が回復したと言える状態になった。


「このクソ暑いのに仕事することはおかしいのではないか。まず、自身の健康を損なう。暑さの中でも働けるようにとクーラーをガンガンかけて等をやるこの国の”勤勉さ”に対して、似非アナルコ・エコロジストとしての生体的本能が、意識的統御を越えて発動されてしまったのである」などと適当なことをつぶやいていた。

まず、多くの人が体調をおかしくしたり、暑中症でなくなったりするような気象環境で働かせること自体が反人間的ではないのか。経済採算からしても合理化できることではない。これを無理してクーラーをかけまくり、環境破壊を促進してまで労働させる。それは本当に労働生産性にも合うことなのだろうか。

経済合理性もないことを強行している理由は、「働く」ことについての批判を封じ、集団同調の枷の中に人々を縛るためのイデオロギー的支配として行われているのではないかと疑ってしまう。

2010年7月21日水曜日

「暑い」と言ったからといって

どうにも暑い。「暑い」と言ったから暑くなくなる訳でもないのに、先ずは「暑いですねぇ」
とか、「アジイ!」と言ったりしている。人間はまさに社会的動物であるということか。

ところが先週以来、喉が痛い。喋るのも辛くなり、今日になると咳まで出始めた。下らないことばかりに考えが囚われている報いか。
中身のない筈のアタマも重く、何も考える気もしない。気分転換に昔使っていた木製のハンガーやスボンつりを使って、バターナイフの類いを作ってみた。長年使っていた木なので、割れたり反ったりするする心配もない。シラガシや楓の類いだったのだろうか。なかなか面白い木目が出てきた。「うん、これは商売になるかもしれない」こんなことをやっていると気分が落ち着くのだから、まったく隠居モードだ。

2010年7月20日火曜日

高いところに上げて舞い上がらせる


拠ん所ない事情である銀行の支店へ行った。口座を作った当時は駅近くの便利なところにあった支店が、人に断りもなしに20階以上もあるビルの上の方に移っていた。どでかいほぼ真四角の建物の1/6を使ってガラス張りの吹き抜けが作られている。建物の中にいながらにしては開放的な空間が楽しめる贅沢な造り。事務所部分は、この吹き抜けを囲むようにコの字型に配置されている。

その20階にも近い処の広い窓(掃除にもカネがかかるだろうね)からは、都心の**ビルなど埼玉に30年いた僕でも知っているビルが隣り合わせのように見え、神宮の緑ははるか下に広がる。悪い感じはしない眺めではある。諸々を見下ろす視線は、人の意識を優越感の方向に傾けるのだろうか。そう言えば、ミシュランの地図で、道路に緑のラインがついているところはpanoramatiqueとある。見上げるより見下ろす方が気分が良くなるのだろう。

しかし、どうしてこんなビルである必要があるのだろうか。空調、エレベーターのメンテ等々、似非エコロジストとしては、つい意地悪なことを考えてしまう。

そこにびっくりする程にばっちり化粧で武装したラファエロ型の美人さんがやってきて相談に乗ってくれるというのだから、演出にカネがかかりすぎている。彼女は普通預金に置いておくしか能のない僕に向かって、「**をここで運用すれば**、最悪でも**」等と色々の提案をしてくれる。旨い話しであればあるほど疑ってかかってしまう僕は、つい「ところで失礼ながら、**さんは月に化粧代にいくらかけていらっしゃいますか」と尋ねたくなり、こらえるのに随分に苦労した。

2010年7月19日月曜日

睡蓮に黒富士

梅雨が明けてしまった。この月の初めに生まれたという僕ではあるが、どうにもこの暑さに身体が適応していくのがうまくない。

今朝は、家人が買ってきた睡蓮が咲いた。子どもの頃に庭の池で親しんだ単純な赤やクリーム色のものとは違って、どこかバター臭い今風の花だ。

今日も見事な夕焼けだった。明日も暑いだろう。早朝には雪のない黒い富士が見えた。

2010年7月7日水曜日

縮小志向

身辺のゴミ溜め状態が一層ひどくなる中で今年の中間点を迎えてしまった。
これがただの中間点なら生活を振り返る時点として良いのだが、この日は偶々ぼくの誕生日にあたっている。いつも困る。何故か半年を振り返るだけでなく、この1年の変化を顧みることを義務づけられている気分になる。親を恨む前に、この律儀さをなんとかすれば良いのだろう。

引っ越してきてから知り合った方から、なぜか、一生そんなものは飲めないと思っていたシャンベルタンをいただいた。それを抜栓し無事にアラカン+αを重ねることができたことにお礼を言い、祝っていただいた。

以前は、変化といってもそれは1年間の成長であり前進が変化だった(!)。今でもそうである筈だと思い込んでいる意識は強烈にある。ところが、現実を冷たく眺めると成長や前進は極めて少なく、衰弱や後退といった現象の方が多い。髪の毛の減少は既に30代にあからさまに経験したので、とうの昔に衰退や後退を嘆く対象ではなくなっている。ところが、ありとあらゆる面で停滞と後退、衰弱すらが感じられてならない。外国語の運用能力は落ち、筋トレも進まず、睡眠時間も短くなり(従って始終眠くなって疲れがちになる)、視力も資力も後退の一途。

生物として身体能力はとうに盛りを過ぎているのだから当然のことだ、むしろ衰退し後退しない方がおかしいのだとアタマでは思う。しかし、まだ受けいれようとしていない自分がいる。

死へのカウントダウンの過程として考えれば良いのかもしれない。偶々、le Monde diplomatique 日本語版で decroissance「縮退」についてに記事を目にした。


http://www.diplo.jp/articles09/0908-4.html

これはとても面白い。密かにエコテロリストの準備を始めるよりは、ずっとまともな感じがする。もっとも、シャンベルタンをいただいて喜んでいるようではいい加減なものに留まる公算の方が高いのだろうが。