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2010年3月15日月曜日

コラーゲン

新聞も広告が取りにくくなったのか、それとも読者が高齢化したためか、いわゆる健康関係広告が目立つようになった。正確にいうと僕が最近このことに気づくようになったらしい。連れ合いによると、もう数年も前からどんどん増えているというから、単に僕が鈍かっただけのこと。

中でも笑ってしまうのが、「コラーゲンが増えます」といった類いの広告だ。何かの軟骨だの、こってりしたスープだとかゼリーとかを摂ればコラーゲンが増えて「もちもち肌」「つやつやお肌」になるとか、膝の痛みも解消するとか、痛いところに擦り込めば痛さも和らぐといった宣伝が、新聞には毎日のように出ている。そんな筈はないではないか。コラーゲンは消化の際にアミノ酸に分解され(その後はどうだったっけ?)、コラーゲンを律儀に痛いところだけに増やしてくれる訳ではない。何とか軟膏を一生懸命に擦り込んでも「お肌に染みとおる」わけではなく、肌のごく表面の角質部分の隙間に入り込むのがせいぜいだろう。大体、そんなものが「お肌」にしみ込むくらいなら、分子がもっと小さな水こそ最もよく肌にしみ込み、手洗いする度、入浴するたびに我々は水ダコ状になってしまう筈ではないだろうか。

この種のインチキには化粧品という大手の大産業がある。しかし、化けることができると思っているのは若者の特権で、既に諦観に達している年寄りが化粧品にカネをかけてくれる可能性は低い。そこで今度は”健康”が売り物になるのだろう。こいつは上っ面ではなく、年寄りに相応しく身体の内面から迫るというちょっと渋い手法であるところが面白い。

2010年3月13日土曜日

簡単英語

友人が国際学会で発表するための英文原稿を、4万円以上払ってnativeの人に点検してもらったという。所詮は日本語で育ち、学んできた者なのだからnativeから見れば少しおかしな英語であっても、要点が伝われば良いではないか。それを「英語らしい英語」にしないと笑う、中身に関係なく低く評価する、果ては初めから受け付けな、いというのでは、総てにわたって英語を母語にする連中が有利になり不公正ではないか。従って、「まともな英語」にすることにかかる費用の総てはnativeの連中が負担する。これがまともな対応というものではないか。

こんなことを呟いたら、連れ合いが「それでは結局のところ、マトモな英語が基準になってしまうからnativeの圧倒的優位は変わらない。むしろ英語を母語にする連中にもplain English とか simple English を使うことを義務づけてしまう方がいい。使用語彙はせいぜい3000くらい、話す速さにも制限を付ける。発音についてもある幅を持たせる。それができないnativeには、母語でない人と同様にそのための”通訳”を義務づける。その費用負担は参加者全員が負担するけれど、母語の人が2なら、そうでない人は1くらいの負担差をつけていい」といった思いつきを出した。

英語支配によって米国や英国が無償で得ている利益は、政治経済の世界だけに限らない。アメリカやイギリスの大学が勝手に世界ランキング第何位とか称していることも、また国際学会誌に発表されることが第一線にあることの証拠とされ、その学会誌が英語しか受け付けずにいつことも、人類の多様な知的営みを画一化し極めて貧しいものにしている。

喫煙規制にどこか似たところがあるが、まず複数の言語使用者が集まる何人か以上の国際的会合の総てに英語使用についての規制をかける条約を締結すべきではないか。

2010年3月12日金曜日

久しぶりの星

年休をとって休みに行った先で、久しぶりに満点の星を見た。
夜になると星もろくに見えず、窓からは「みごとな都心の夜景」とやらしか見えない生活は、映画『トルーマン・ショー』The Truman Show(1998)の巨大ドームの中で暮らしているようなものではないかとすら思われてきた。

雪のためにTVアンテナの具合が悪くなったとかで、それでも通じているネットを無視すれば実に静かな時が流れる。
読み切れるはずもない小説類をもって来た。やはり数冊しか読めそうもない。柴田元幸訳のジャック・ロンドン短編集『火を熾す』(スイッチ・パブリッシング)を読む。「水の子」がAランクとすると、古くさいSFのような「影と閃光」「世界が若かったとき」はDランク、「火を熾す」「メキシコ人」「一枚のステーキ」はBランクというところか。

リュドミラ・ウリツカヤ、前田和泉訳『通訳ダニエル・シュタイン』の上巻も持ってきた。明らかに傑作なのだが手元には下巻がない。リクエストを出して順が回ってくるまで待つのは面白くない。読み始めるか迷う。

2010年3月4日木曜日

罪なバレー・ビデオ



学会参加のためにアムステルダムへ行くという友人と話していて、おそらくはかの地で安く見聞きできるだろうバレーや演奏会があることに急に想いが飛んでしまった。PCのモニターを見るのは嫌いなのだが、ついネットをあれこれ見てしまい、Nederlands Dans Theater なるところのサイトにぶつかった。

このサイトには、これまでの公演のビデオがいくつも載っている。せいぜい1分にもならないものだが、なかなか楽しい。つい、仕事の区切りがつく度に見てしまった。おそらくは、世界各地の劇場付属のバレー・サイトには、触り(extraitとでもいうのだろうか)のビデオが色々載っているだろう。困ったことだ。

博物館や美術館のサイトに、主な所蔵・展示作品が載っているのは知っていた。また、「名画」サイトの類いがあるのも知っていた。しかし、それは大きくなったとはいえ現物を考えれば、僕にとっては小さなモニター上でカタログを確認する程度のものだった。ところが、このビデオは画面が小さくても動きがあるので、束の間のあいだ天井桟敷から覗き見をしたような刺激がある。まずい、、、!

http://www.ndt.nl

金持ち国に住んでいる者のどこか逆立ちした好み。人体は自然だろう。ダンスも身体をつかうのだから自然に属するのだろう。しかし、その身体の動きによって表現されようとしている事柄は、すぐれて人為的意識的なものでしかない。都市の人口空間を移動している/させられている人々は、他の動物が歩いたり走ったりする時のように身体を使うのではなく、常に何らかの意識的な身体表現をしているのかもしれない。