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2010年11月22日月曜日

『通訳ダニエル・シュタイン』

10月初め以来、目眩症が酷くなる度に静かにしながら本を読んでいた。仕事関係では、どうしてもメモやノートを取らざるを得ないし、次には気になった部分について二重に並べた本棚のあちこちを歩き回ってしまう。狭いところとはいえ、これでは静かにしていることにならない。

疲れの大部分はストレスによるものでもあったので、読みたい本のリストにあったリュドミラ・ウリツカヤの『通訳ダニエル・シュタイン』を、ぽつりぽつりと読むことに落ち着いた。パッチワークのようにして物語られるこの小説は、行きつ戻りつしながら少しずつ読むのに適していたのだ。それを今日、とうとう読了してしまった。何とも濃厚な充実した時間だった。

キリスト教については、殆ど知らない僕なので、ユダヤ教とキリスト教、ロシア正教とギリシャ正教の異同をめぐって繰り広げられる人々の苦労などについては皆目分からなかった。読んでいて神をもつ信仰の堅苦しさ、息苦しさに呆れもしていたのだから、神への信仰がこの物語の主要なテーマでもあるので、読んだといっても僕は半分も作者のメッセージは理解できていないのだろう。半分はイスラエルを舞台にしていながら、アラブ、イスラムの人々との関係が殆ど出てこないという不満はある。それでも、もう一度読みたくなる本だった。何故だろうかと考えている。第二次世界大戦でポーランドなどであったことの重さ、その中で貫かれる人間の信頼関係と愛情の尊さ等など。あれだけの侵略戦争をしてきたこの国に、侵略の現場での経験に根ざした小説が殆どない(少なくとも僕は知らない)ことも改めて痛感させられた。
こなれた日本語に訳してくれた訳者にも感謝。

2010年11月21日日曜日

秋は紅葉

松井田の中山三喜男さん(93歳)のところまで、36年の高崎15聯隊での、「鼠君哀哭・髑髏隊」の仮装について再度伺いに行った。中山さんは去年よりもお元気な程で、新たに色々な周辺情報を伺うことができた。先月の北大での Harriman 文書での新たな確認など、どうも収拾しなくてはならない調査研究の領域が、かえって拡がってしまうような気配で、前進はあるものの喜んで良い困り果てている。

折角の遠路の訪問だったので、近くで一晩骨休みをした後、次にやらなくてはならない妙義闘争の舞台だったところの裏道(43号)を通って帰った。「由緒正しい日本の田舎」といった光景で、思いもかけず紅葉を楽しむことができ嬉しかった。遠距離調査のご褒美というところだろうか。

2010年11月8日月曜日

佐野洋子さん

佐野洋子さんが亡くなったことを知って落ち込んでいる。癌の末期であと2年と言われていたことは、最近書かれたものから知っていた。しかし、それから2年以上がたち、新しい文章に接することはなくても、死去の報道を見ることもなかった。「人間だれで死ぬのだから」と言ってはいるものの、それでも病と闘ってしまいながら、彼女の日々を送っているのだろうと思い願っていた。

会ったことは勿論ない。しかし、無性に寂しく悲しい。もう二度と彼女の新しい文章や絵と出会うことはできない。涙が出る。

初めて読んだ本が『100万回』でないことは確かだ。短いエセーのようなもの。涙が出る程に笑い転げた。飾りっ気がなく、鋭いけれどユーモアがあり、きついけれど重苦しくもない。何よりもの魅力は本音だけしか書かれていないことだったかもしれない。


新聞報道には「女性に人気があった」とか、「シニカルさが魅力」などとある。アホとしか言いようがない評だ。人気が女性に偏っていたとしたら、それはこの国のオトコ達のジェンダー・バイアスの強さを表すものでしかない。彼女のメッセージがシニカルと感じるのなら、それは物質的に豊かといわれるこの国の社会の根深い貧しさに無頓着であることの自白でしかない。それ程にこの国のオトコ達はアホではないし、彼女のファンの多くはシニカルさを楽しんでいたのではなく、彼女の指摘の鮮やかさ、社会描写の的確さや鋭さに共感していたのではないかと思う。

殆ど10歳年長なのだが、同世代の姉に先立たれたような寂しさがある。しっかりした格好のよいお姉さん。72歳で逝ってしまうとはやはり早すぎる。

2010年11月7日日曜日

奇跡の時

2年前に越して来たアパートで知り合った友人にいただいたSt.Julien,2000 を、とうとう新しい友人の皆さんと一緒にいただいた。あと少なくとも10年は熟成させたい代物。セラーがないので、駄目にしてしまうリスクを怖れ、開栓した。

この僕にとっては、まず一生飲むことはあるまいと思われるぶどう酒は、熟成期間が最低10年、20年後くらいが最も期待でき、35年辺りが限度と言われるような代物とのこと。「私は味が分からないから」と鷹揚な友人は、「それは夢の多いワインですね」と言う。しかし、20年も待っていたら、ぼくはもうしっかりとしたジジイになっていて、味も碌に分からなくなっているかもしれないし、そもそも生きていないかもしれない。「いつまでも冷蔵庫に入れておく電気代とスペースがもったいないからではない。今しか飲めないから飲むのだ」と熟成したものを飲みたい自分を言い聞かせ、かくて我が人生の奇跡の時となった。

日頃、千円以下のぶどう酒で、それに合う程度の素人料理で僕は満足してきた。100ポイントをトップクラスとすれば、30ポイントのぶどう酒に、低価格・短時間で作れる30ポイントの料理で、これが我が身と生活相応と考えて来た。それが突然に100ポイントぶどう酒である。急に料理の腕が100ポイントになる訳ではない。それなりに材料に投資し、奮励努力したが、牛にオレンジ・ヨーグルトをベースとした料理は、タマネギの分量が多過ぎたため、高く見ても60ポイントに留まった。無念。しかし、さすがにサン・ジュリアン君は、へぼ料理が相手でも際立って最後まで華麗な変化を楽しませてくれた。

うん、それにしてもフランスくんだりから、おそらくは飛行機で運ばれた酒を飲む。これは何と言う贅沢だろうか。糞XXXな僕は、「このような奇跡に出会えたのだから、せめて良い仕事をしなくては」と改めて思った次第。

2010年11月3日水曜日

実りの秋

10月の天候は悪かった。そのせいか僕の体調も悪かった。逆ではあるまい。しかし、今月になって、秋らしい空と雲になり、陽が射すようになったせいであるかのように、僕の体調も回復して来た。歳をとり、「季節の変わり目にはご注意」の度合いが増えたのだろうか。


という訳で、少し目眩を感じたりしながら、職場では授業時間の合間に構内を歩く。ことしはキノコ類が多いというが、余り見かけない。去年、豊作だった生協前の銀杏は、殆ど実がついていない。その代わりというべきか、学内某所にギッシリと小さな実をつけている銀杏を見つけた。


住まいのそばの公園にも大きな実をつける立派な銀杏がある。競争が激しい。おそらく早朝等は、大変な争奪戦になるのだろう。僕が行く暖かな時間には、実を取った果肉部分があちこちに散乱している。それでも、のんびりと樹下を歩くと毎回10個以上は、見落とされたのか、争奪戦の後で落ちたのか収穫がある。何とも楽しい。ドケチでさもしい僕は、得もいえない小さな幸福感で一杯になる。安いものである。

2010年10月27日水曜日

バランスが取れない

北大図書館で、かねてからの僕のトンデモ仮説が概ね正しいことを裏付ける資料を見つけ、アドレナリンが出まくったためか、札幌から戻った途端に気温が下がった東京で、またまた風邪をぶり返した。


目眩症も戻って来た。今日は、厳寒期にしか着ない下着をつけ、マフラーに帽子といういでたちで職場に行った。寒くて仕方ないのだ。喉も痛いし、全身がだるい。アタマを急に動かすと目眩もしてくれる。


フランスの高校生達ではないが、ジジババはさっさと退職し、職を若者たちに譲り、早く第三の人生を送れるようにして欲しいとつくづく思う。若いことのように馬力で飛ばすのではなく、心身のバランスを取りながら慎重に進まなくてはならなくなっているのだ。


友人からチベットでの抗議運動についての情報が届いた:

http://www.epochtimes.jp/jp/2010/10/html/d97045.html
 
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2010102302000031.html
http://dogma.at.webry.info/201010/article_9.html

 
http://www.youtube.com/watch?v=Ae4teTJvDHQ

2010年10月24日日曜日

公園の中の大学

北海道大学図書館へあるマイクロフィルムを調べに行った。20年来の僕の一寸ビックリ仮説の傍証となる資料探しのためだ。ズバリの資料はそもそも期待していなかった。しかし、10数巻のマイクロを2日半精査し、僕の仮説の方向が間違えていなかった確信ができた。


めでたしめでたしなのだが、これで見切り発車して書けば、必ずや「直接の裏付け不十分」との反論が返ってくるだろう。更に間接証拠を固めるには、嫌いな米国の、これまた好きにもなれそうにもない南部にある Clemson 大学なんてところに行かなくてはならなくなりそうだ。20年近くサボっていたのは、何とも恥ずかしい限りだが、これで区切りを付けることにした。

日頃の行いが良いためか、札幌は穏やかで暖かな天候で、図書館に閉じこもり、マイクロ・リーダーに映し出される画面を見ているのが何とも疎ましく感じられた。しかし、ここは20年のサボの回復に全力を挙げなければならない。2日半、ろくに外にも出ずに頑張った。


それにしても、北大のキャンパスは広い。構内バスが走り、専用道路を自転車が走り回し、ジョギングしている人も多い。そもそも、学生より学外から散歩に来ている人が多いのだ。


広いのに加えて100年の年月を経た樹々が何とも美しかった。45年前、知っていたら張り切ってここを受験していたのではないかと思う。デジカメを忘れ携帯でとった写真は、どれもピンぼけ気味。

2010年10月20日水曜日

宅急便の使い方

同居人殿が i-Pad を注文したという。それが届いた。何とも珍妙なもの。

それはともかく、仰天したのは、本体が届く前に送りつけられてきたの梱包である。先ず小さなボール箱が届いたのだ。軽い。計ってみると100gもしない。「さては i-Pad がぬきとられたのか」と思ったが、開いてみると、何のことはない「i-Pad を発送した」というA4の通知が1枚入っていただけ。作業が定型化されているため、封筒に入れるのではなく他の商品と同じ箱が使われているようだ。あきれはてた。

めまいが殆どなくなって来たのを良いことに少し馬力をかけていたら、また目眩がするようになってしまった。壊れやすくなったということだろう。慎重運転。

2010年10月18日月曜日

「第3の人生」のための闘いと法

日本では、退職後の「第三の人生」として人々が希望する期間は平均すると約15年位であるのに対して、フランスでの平均は約25年だという調査を見たことがある。30年以上は退職後を楽しみたい僕には、我が祖国の人々の「勤勉さ」には鳥肌がたつ思いがしていた。人間らしい人生にとって、退職後の「第三の人生」は、この世に生まれ、そして死んで行く人間にとって必要不可欠のものではないか! そんな僕であるから、今度のフランスでの年金改革反対運動は大変に気がかりで注目していた。

9月末くらいから、かの国での年初め以来の年金制度改革反対の運動は、第3の山場を迎えたようだ。年金開始年齢を60歳から62歳へ、全額支給年齢を65歳から67歳へと変える法案は、2度にわたる反対派の全国ストにも拘わらず、既に上院を通過している。しかし、この春の地方選挙では与党は惨敗しているし、サルコジ大統領にたいする支持は30%を切ろうとしているという。

興味深いのは、議会で法案が通っても、否むしろ通った後にも反対運動が盛り上がり、法案反対の全国ストには世論の70%の支持が集まっていることだ。トラック運転手達もノロノロ運転をし、南西部などいくつかの地方では、ガソリンスタンドの蓄えがなくなっているという。首相は、「人々の燃料にアクセスする権利を脅かす権利はない」と反対運動を非難しているそうだが、しかし労働組合のストライキや団体行動は、憲法上でも保障された権利である筈だ。

つまり、法は立法を通して人々を拘束する仕組みとともに、その法を覆す方途も定め、両者の緊張関係の上に動いていることになる。日本の法もそういう構造にはなっている。しかし、後者を実際に使い動かす力は、1970年代あたりで殆ど見当たらなくなった。しかし、そうした力がフランスでは健在であるという事実。これは何とも考えさせられることだ。

改めて感動的なのは、高校生を含む学生たちもが年金問題という、自分たち自身にとっては未だ先の問題に取り組んでいることだ。これは単に教育費削減に対する年中行事化したデモや学校占拠とは違う。この国の若者たちも、凄まじい教育費削減や雇用状況の悪化の中で、現在の政治に対する憤りを高めていると思う。しかし、その憤りがこうした人々に呼びかけ、仲間達で力を合わせての運動にすることが極端に難しくなっているのは、何とも痛ましい。

2010年10月17日日曜日

騎士団、あるいは領土なき国家

9月の旅の白眉の一つは、修復されたマルタ騎士団の教会を見ることができたことだ。10年以上前、在外研究で滞在することができた際にイタリア語を習っていた Giovanni が勤めていた学校の隣には、マルタ騎士団の小さな元教会があり、使われないままに物置のようになっていた。彼が口癖のように「これから少しずつ修復する」と言っていたのが遂に実現していた。

ドナテッロをもうならせたというブルネッレスキ風の十字架磔形像、今なら小さな金庫でも埋め込んでいたかのように思われる壁の穴には、13世紀のマリア像。脇の壁面にはこのマリア像を取り込んだ大きな聖母子像。そしてカラヴァッチョ風とその直後のマニエリスモの手法が並んで使われているサロメのシーンを描いた立派な絵(フラッシュを控えてしまい上手く写せなかった)。平凡な構図だが傑作といって良い。これにはたまげた。
また床には、ロードスの闘いで戦死した騎士長とかのみごとな浮き彫りの墓銘石板がある。踏みつけられて磨り減ってもおらず、作られたばかりかのよう。この種の墓銘石板の像によくあるように仰向けに横たわり、両手を身体の前でくんでいる死者の姿ではなく、抜き身の剣に身をもたれ暫し瞑目しているかのような像だ。
つまり、観光案内書に記されてもよいような立派な作品がいくつもあるのだ。
一体いまどき、どこから修復資金が出たのだろうか。

帰ってからあわてて調べてみて驚いた。マルタ騎士団は、マルタ島にウェストファリア条約後も固有の領土をもった国家として遇されていたということ。18世紀末のナポレオン軍による攻撃を前に、闘わずして島の支配権を明け渡し、領土なき国家となってしまったとはいえ、ナポレオン後のヴェローナ会議では西欧諸国から国家として承認され、現在でもローマにある本部建物は各国大使館同様の外交特権が認められているということ。そして、国連でも総会オブザーバー United Nations General Assembly observers として、医療関係のNGOとして活動しているらしいこと。外交関係を結んでいる国も100カ国近くあり、これがどうやら増え続けているらしいこと。
http://www.orderofmalta.org/?lang=en

あの塩野七生さんが、この騎士団が最初にいたロードス島でのトルコとの攻防戦についてお話を書いていることも知った(この方のものはかなり読んではいたが、何故か好きになれないので見逃していた)。

面白いのは、騎士団と訳される言葉が英語なら order 、フランス語なら ordre 、イタリア語なら ordine であることだ。教会/神の命令によってどこにでも出かけて行く者ということからきているらしい。それならば十字軍にひっついて行って暴れ回った、現在でいう緊急派遣部隊、特別旅団のようなものに過ぎないという感じもする。しかし、その組織が領土をもって国家として処遇され、更には固有の領土がなくなった後でも主権国家に準じた扱いを受けているという点は、今後の世界ではわくわくさせることではないか。

既に「国境なき医師団」など越境的な国際NGOは数多く活躍している。しかし、そうした組織に属することが、どこかの主権国家の国民であることと同等の扱いを受けるとしたら、例えば僕も幽霊会員であるアムネスティ・インタナショナル会員がもつアムネスティ・インタナショナルのパスポートが主権国家の発行するとパスポート同様の扱いを受けるようになったら、鬱陶しいことの多い主権国家の国籍を捨てて、そうした現代の「騎士団」、領土なき国家に加入する人は何百万、何千万となるのではないだろうか。わが日本国憲法にも国籍離脱の自由は保障されているではないか。

2010年10月16日土曜日

中共元幹部提言・劉暁波受賞、そして尖閣事件

毛沢東の秘書だった李鋭、人民日報の前社長・総編集長の胡績偉、新華社の元副社長・李普など、中国共産党の指導的地位にいた人など23名が、10月1日に全人代宛に言論の自由保障を訴える公開書簡を出したという。このアッピールには、たちまち約500人の賛同が集まり、近日中に総ての氏名も公表されるという。


http://www.guardian.co.uk/world/2010/oct/13/china-party-veterans-free-speech
英訳と原文:
http://cmp.hku.hk/2010/10/13/8035/


劉暁波のノーベル平和賞受賞は9月には殆ど確実視されていたから、この公開書簡は受賞正式決定前を狙って出されたものと見てよいだろう。このアッピールで特徴的なことは、劉暁波が11年の懲役刑を受ける「罪状」となった08憲章以上に、中国憲法、政府指導層自身の発言など、現在の支配集団にとって正面から否定しがたい正統性ある文書や言説が、主張の論拠とされていることだ。この8月の王家宝の一連の発言など、僕は大して注意もしていなかった。


貧困と格差の進行、水などの資源危機、高齢化社会への急速な突入、いつはじけてもおなしくない上海バブル等々。現在の支配集団にとっても危機は深刻に受け止められており、危機への対処をめぐって一党独裁強化・帝国的対外侵出派と多党制への以降+多極協調派との間で、2012年の政権世代移行を前に、内部抗争が高まっているのだろうか。


そうだとすると、尖閣問題も前者による内なる不満を外に向けさせるだけでなく、2012年の政権世代移行を前に、「強い中国」を打ち出すための仕掛けであったと見ることもできるかもしれない。しかし、1ヶ月程で外交的手打ちがなされたのは何故か。一つは、劉暁波のノーベル賞受賞が、彼らの予想以上の国際的インパクトを生んだこと。そして米中日の経済的相互依存関係の重さからだろう。


とすると、劉暁波の受賞は予定されていたことだから、受賞をきっかけとする中国批判を予めシナリオに入れておいて尖閣事件を仕掛けた別のアクターがいるのかもしれない。事件発生後、13時間もたってから逮捕したというからには、その間に前原外相は様々な方面と連絡協議していたはずで、その主な相手にはいうまでもなく米国がいたに違いない。こう考えると、尖閣事件の黒幕には人民元切り上げを求めて来た米国の影が浮かび上がってくるように感じられる。一党独裁・帝国的侵出派は米国の仕掛けた罠にはまったということになる。


長い間、中国にいたことのある友人は、23名のアッピールは大きな波紋を呼ぶだろうが、しかし中国の民主化には今後20〜30年はかかるだろうという。


それにしても<言論の自由>は偉大な原則だと改めて思う。さて、この国の<言論の自由>の実態はどうだろうか。横並びの大手メディア、情緒的で時とすると簡単に扇情的になる報道なるもの、売れることを狙い、刹那的刺激をくすぐるだけのその場限りの報道、そして何よりも少数意見や異論への不寛容と排除、アリバイ作りとしてしかなされない少数意見や異論のつまみ食い。一応は雑多な意見が自由に飛び交っているようで、<言論の自由>がなく公然と検閲が行われている国よりはましかもしれない。しかし、より見えにくい抑圧はありはしないか。

2010年10月12日火曜日

良性発作性頭位めまい症

先月末に奥歯を抜いた。その頃からめまいがするようになり、次第にそれがひどくなって行った。一時は風邪もひいていたので、「風邪のせいだろう」くらいに軽く考えていた。丁度、後期が始まったことでもあり、「これは内なる登校拒否症の身体的表れかなぁ」とも思い、我がことながらあきれていた。ところが極力睡眠時間をとり、運動も止め体力を消耗しないようにしても一向に治っていく気配がない。初めての経験だけに、「これはとんでものない病気にかかっている兆候かもしれない」と不安になる。


風邪の症状も軽くなったところで、意を決して近くの病院へ行った。受診科は内科だろうと思っていたが耳鼻科へ回され、いくつかの検査を手際よくしてもらい、「良性発作性頭位めまい症」Benign paroxysmal positional vertigo(どう発音するのだろう)との診断をもらう。良性という以外は、単に症状を記しただけの病名だけれど、とんでもない病にとりつかれてのではないかと怖れおののいていた僕は一安心した。


三半規管に耳石が浮遊しているので目眩がするとの説明。面白かったのは、潜水用ゴーグルのようなものを付けられた眼振検査なるもので、目眩がしているときに医者は「はい、いま目眩がしていますね」と正確に確認したことだ。目眩がしている時には、眼が激しく動くのが見て取れるとのこと。つまり、本当に“目が回っている”という次第。


浮遊した耳石をあるべきところに落ち着かせるためのリハビリを教えてもらう。これが素晴らしく良く効く。第1回目で目眩は半減し、第2回目で更に半減するというぐあいに効いてくる。受診後、2日目には目眩は殆ど気にかからない程になった。


それにしても妙な病気になったものだと、あれこれ調べてみる。すると、「40〜60歳代に多く、春先や秋口などの季節の変わり目に多い。低血圧、貧血、アレルギー体質、高コレステロール値の人、中耳炎に罹った人がなりやすく、自律神経機能に関係している可能性も高い」とある。ほとんどが自分に当てはまる。


果たしてこれは、自分で自分のことがよく分かっていなかったという愚かさを証明することなのだろうか。ただぼんやりと歳をとっていてはならない、行く手に待ち受けている障害物にぶつからないように、しっかり自らの老いを見据えていなくてはならないという次第か。丁度ライトのないクルマで走っていたら急に辺りが暗くなって障害物が見えなくなった、というよりも、最近のクルマのようにライトの光力(? つまり先を見る力)も増して来ているのに、ライトでは見ることのできない障害物が飛び込んで来たといった感じがする。任天堂のマリオでは、新しい奴になる度にとんでもない障害物が飛び込んでくるが、それにしても画面に見えるし、新たに試されるのは反応の早さ、機敏さに過ぎない。しかし、そもそも見えない障害物が飛び込んでくるのだ。


まったく歳をとるということは、なかなかやっかいなことだと改めて思った次第。

2010年9月30日木曜日

自転車を買おう

自転車用のヘルメットを買った。これまでのものは10年以上も前のもので、しかも一部欠けていたところも実はあった。だから、とうの以前に実用性をなくしていた。それでも冠っていたのは、専らクルマの運転手などから目立つため。写真の手前の奴がをれで、後ろには虹色7色のリボンが NO WAR と記したテープで貼ってあり、左脇には ci siamo sciopero generale と威勢のよいことをかいた RC のシールが貼ってある。

今度はロードレーサーを買おうと思っている。ガンガン走れるかもしれないのは、今のうちだろうから奮発してカーボン+アルミの軽いかもしれないがゴツイ格好の奴にして、10年後には再びクロモリのおとなしいスリムなものに戻れると良い。その間に、出来るだけ早く何とか折り畳めるミニバイクも買いたい、等々。

探し始めてみると、実にたくさんのメーカーが色々な機種を作っている。まず、外国のものが多いことに驚く。欧米のものだと何かおしゃれな感じがするからだろうか。西欧かぶれのしかし国粋主義者としては多いに迷う。

僕は体脂肪率が11を割り込んでいる。しかしコレステロール値と中性脂肪値が異様に高い。かろうじて生きているのは、専ら低血圧のためだろうと思う。好きな酒類といまいましい遺伝体質が原因にあるのだろう。しかし文句を言っても仕方なく、こればかりは何とか対策を打たなくてはならない。そこでジョギングをしようと、痛む膝をカバーするために筋トレを始めた。しかし、膝の痛みはなくならない。せめてとばかりに埼玉にいた時は25年以上、片道8kmを自転車で通勤した。

ところが都内に越したために自転車通勤が難しくなった。片道約20kmと自転車で走る距離としては良くなった。だが、幹線道路の至る所に「自転車通行禁止」の標識がある。大きな道路は専ら自動車のために作られているらしい。至るところに増えたスポーツクラブで泳ぐという手もあるかもしれないが、空も見えない室内の、しかも25mしかないプールをせせこましく泳ぐのは、「私は街にしか住めないから」と言いふらしているようで何ともおぞましい。スポーツクラブに貢ぐカネを自転車に回して、休日は走り回るというのは悪くない。退職迄の2年間に自転車通勤できるルートを見つけられるとも思わない。しかし、2年後からは休日も増える筈だ。

という次第で当分の間は、自転車探しをすることになりそうだ。何とも優雅。

石畳の道は世界遺産ではない?

ようやく取れた休暇を使って、3年ぶりにフィレンツェへ行ってきた。
1年半前に亡くなった親友の弔い。低劣な遺産争いの結果、退職後に予定し約束していたいたイタリア研究ができなくなったことの挨拶。そして連れ合い共々に心身ともに疲れ果てた数年間をくぐり抜けたご褒美としての休養。

3年前にもその気配は十分にあったが、中央部 centro storico の観光業地化は著しく、世界遺産だらけで替えようもない建物は変わらないものの、その中は至る所に東京等と変わらない内装の店だらけに変わり果てていた。パリでもカフェがつぶれてスタバになっている所が少なくないという。それと似た現象だろう。

ダ・ヴィンチがグライダー実験をしたという Ceceri の山から切り出された石で敷き詰めていた趣のある道も、至る所で平らなクルマで走ってもガタガタしないこぎれいなものに替えられている。石畳の道も世界遺産の街の不可欠の一部ではないのかとうめいてしまう。
(左が従来の道、自転車ならマウンテンバイクにしたくなる程。下が新しく敷かれたロードレーサーでも突っ走れるような道)


親友から電話があり、彼の息子が司法書士の論文試験に合格したと知らせてくれた。嬉しい。彼は、元気でまともだったためか下らない校則違反で高校を退学処分同然に追い出され、20代後半には何と結核におかされた苦労していた。どれだけの苦労があったことだろうか。こういう知らせを聞くと、何かと言えば老いを口実に消極的になっていることが恥ずかしくなる。

2010年8月15日日曜日

美しさと虚しさ



東京湾大華火祭なるものの花火が遠くに見えた。先月末の隅田川花火も見えたが、これはよくなかった。雨が続き、花火自体が湿っていたこともあったらしい。

目をこらしていると、近くに建ったビルの脇に花火があがり、しばらくしてからドンと音が届く。最近の流行なのだろうか、緑青のものが目立った。いかにもカネがかかっている風情。

すぐさまに消えてしまう美という点では、花火に優るものはない。それだけに贅沢な気分になれるのかもしれない。贅沢でありながらスポンサー以外の多くの人がタダで見ることができるという気前の良さ。束の間の公共経験? 

若い頃は音が聞こえようなものなら単純に嬉しがり、良く見えるスポットを探して夜道をあたふた駆け回り、蚊に刺されるのもものともせずに楽しんだものだった。しかし、最近は「今このご時世に大花火大会かよ」と、どうも素直に楽しめない。我ながら嫌らしいジジイになったものだ。

2010年8月13日金曜日

大学説明会で出た質問

先日、くそ暑い中で、「オープン・キャンパス」と称して、高校生相手の大学説明会があった。18歳人口、つまり「お客様」人口が減り始めた数年前から始まったものだが、この暑さだというのに、毎年参加者が増えている。奇怪なのは、同伴する親の増加率が更に著しいことだ。付いてくる親も親だが、それに甘んじているいい歳をした若者は一体どうなっているのか。つい、参加者に記帳でもしてもらって、親と一緒に参加した受験者は一律に不合格にしてしまえと思ってしまう。「『大学説明』や『入試要項』に書いてあること以外は喋ってはならない。なぜなら、そうすると説明会に出なかった人とのあいだで不平等が生じるから」という、これまた訳の分からないお達し(それならそもそも説明会などやらないのが正しい対応ということになる)が噂されたりする中で、面白おかしくもない説明会なるものが終日行われた。

大学側は、「まだ見捨てられていないようだ」という安心感を得ることができ、高校生やその親の側にとっては、「こんな所なのだ」という空間体験を得ることができたのだろうから、それなりの成果はあったとすべきなのだろうか。ともあれ、僕にとっては何とも虚しい時間であった。

そんな中で考えさせられることもあった。担当する説明の場が終わった後で、「学費はいくらになりますか?」「奨学金ってどうなっているのでしょうか?」という質問を受けたのだ。こんな質問を受けたことはこれまでなかった。事態はここまで深刻になっている!

説明会に来て尋ねなくても調べれば、ある程度の見当はつくことなのだが、改めて真剣な顔で尋ねられると思わず背筋が伸びた。民主党政権になっても一向に変わらない文教予算の削減。その重点的一環としての大学予算の大幅削減。大学説明会にうんざりする前に、こうした政治動向と自分はきちんと闘っているのか。この春、お茶の水駅頭で奨学員制度の抜本的改革を求める署名活動をしていた学生たちを思い起こし、改めて我が身を振り返った。あの学生たちと比べたら、ずっと楽な所にいながら自分は何をやってきたのか、、、

2010年8月11日水曜日

キが多くなる

何十年という間、出入りしていたあるお宅で昼寝をして天井を見上げたら、何とも木目が面白い。見ているとその躍動するような表情に面白くなり眠気が失せてくる。


材は屋久杉だというのだが、何とも奥ゆかしい。まったく木の面白さに目覚めるということは困ったことだ。やたらに気が多くなる(これアラカン・ギャグ)。退職後は何としても木材関係の仕事をしたくなっている。樹木に触れる立派な口実ができ、何よりも山に行く機会が増えるかもしれない。

晩年の雰囲気?

7月下旬以来の例年にない酷暑に心身ともにくたばってしまった。まさに「歳だ」との実感がひしひしする。シャワーを浴びたり、水風呂に入ったり、うたた寝をしたり(これが一番多い)、かろうじて生き延びている感じがする。


そこへ友人から、「肺炎で1週間入院した。そのあと大腸ポリープを13摘出の拷問」とのメールが入った。この4年間に3人も同世代の友人に先立たれている。これ以上は適わない。自分が死ぬのはむしろ恐ろしくない。友人に死なれるのは恐ろしい。




そこで一句ものした、、、
黒富士もあと幾度の夕焼けか
どこか川柳じみている。

2010年7月28日水曜日

この暑さの中で働くのはある種の犯罪?



ようやく体調が回復したと言える状態になった。


「このクソ暑いのに仕事することはおかしいのではないか。まず、自身の健康を損なう。暑さの中でも働けるようにとクーラーをガンガンかけて等をやるこの国の”勤勉さ”に対して、似非アナルコ・エコロジストとしての生体的本能が、意識的統御を越えて発動されてしまったのである」などと適当なことをつぶやいていた。

まず、多くの人が体調をおかしくしたり、暑中症でなくなったりするような気象環境で働かせること自体が反人間的ではないのか。経済採算からしても合理化できることではない。これを無理してクーラーをかけまくり、環境破壊を促進してまで労働させる。それは本当に労働生産性にも合うことなのだろうか。

経済合理性もないことを強行している理由は、「働く」ことについての批判を封じ、集団同調の枷の中に人々を縛るためのイデオロギー的支配として行われているのではないかと疑ってしまう。

2010年7月21日水曜日

「暑い」と言ったからといって

どうにも暑い。「暑い」と言ったから暑くなくなる訳でもないのに、先ずは「暑いですねぇ」
とか、「アジイ!」と言ったりしている。人間はまさに社会的動物であるということか。

ところが先週以来、喉が痛い。喋るのも辛くなり、今日になると咳まで出始めた。下らないことばかりに考えが囚われている報いか。
中身のない筈のアタマも重く、何も考える気もしない。気分転換に昔使っていた木製のハンガーやスボンつりを使って、バターナイフの類いを作ってみた。長年使っていた木なので、割れたり反ったりするする心配もない。シラガシや楓の類いだったのだろうか。なかなか面白い木目が出てきた。「うん、これは商売になるかもしれない」こんなことをやっていると気分が落ち着くのだから、まったく隠居モードだ。

2010年7月20日火曜日

高いところに上げて舞い上がらせる


拠ん所ない事情である銀行の支店へ行った。口座を作った当時は駅近くの便利なところにあった支店が、人に断りもなしに20階以上もあるビルの上の方に移っていた。どでかいほぼ真四角の建物の1/6を使ってガラス張りの吹き抜けが作られている。建物の中にいながらにしては開放的な空間が楽しめる贅沢な造り。事務所部分は、この吹き抜けを囲むようにコの字型に配置されている。

その20階にも近い処の広い窓(掃除にもカネがかかるだろうね)からは、都心の**ビルなど埼玉に30年いた僕でも知っているビルが隣り合わせのように見え、神宮の緑ははるか下に広がる。悪い感じはしない眺めではある。諸々を見下ろす視線は、人の意識を優越感の方向に傾けるのだろうか。そう言えば、ミシュランの地図で、道路に緑のラインがついているところはpanoramatiqueとある。見上げるより見下ろす方が気分が良くなるのだろう。

しかし、どうしてこんなビルである必要があるのだろうか。空調、エレベーターのメンテ等々、似非エコロジストとしては、つい意地悪なことを考えてしまう。

そこにびっくりする程にばっちり化粧で武装したラファエロ型の美人さんがやってきて相談に乗ってくれるというのだから、演出にカネがかかりすぎている。彼女は普通預金に置いておくしか能のない僕に向かって、「**をここで運用すれば**、最悪でも**」等と色々の提案をしてくれる。旨い話しであればあるほど疑ってかかってしまう僕は、つい「ところで失礼ながら、**さんは月に化粧代にいくらかけていらっしゃいますか」と尋ねたくなり、こらえるのに随分に苦労した。

2010年7月19日月曜日

睡蓮に黒富士

梅雨が明けてしまった。この月の初めに生まれたという僕ではあるが、どうにもこの暑さに身体が適応していくのがうまくない。

今朝は、家人が買ってきた睡蓮が咲いた。子どもの頃に庭の池で親しんだ単純な赤やクリーム色のものとは違って、どこかバター臭い今風の花だ。

今日も見事な夕焼けだった。明日も暑いだろう。早朝には雪のない黒い富士が見えた。

2010年7月7日水曜日

縮小志向

身辺のゴミ溜め状態が一層ひどくなる中で今年の中間点を迎えてしまった。
これがただの中間点なら生活を振り返る時点として良いのだが、この日は偶々ぼくの誕生日にあたっている。いつも困る。何故か半年を振り返るだけでなく、この1年の変化を顧みることを義務づけられている気分になる。親を恨む前に、この律儀さをなんとかすれば良いのだろう。

引っ越してきてから知り合った方から、なぜか、一生そんなものは飲めないと思っていたシャンベルタンをいただいた。それを抜栓し無事にアラカン+αを重ねることができたことにお礼を言い、祝っていただいた。

以前は、変化といってもそれは1年間の成長であり前進が変化だった(!)。今でもそうである筈だと思い込んでいる意識は強烈にある。ところが、現実を冷たく眺めると成長や前進は極めて少なく、衰弱や後退といった現象の方が多い。髪の毛の減少は既に30代にあからさまに経験したので、とうの昔に衰退や後退を嘆く対象ではなくなっている。ところが、ありとあらゆる面で停滞と後退、衰弱すらが感じられてならない。外国語の運用能力は落ち、筋トレも進まず、睡眠時間も短くなり(従って始終眠くなって疲れがちになる)、視力も資力も後退の一途。

生物として身体能力はとうに盛りを過ぎているのだから当然のことだ、むしろ衰退し後退しない方がおかしいのだとアタマでは思う。しかし、まだ受けいれようとしていない自分がいる。

死へのカウントダウンの過程として考えれば良いのかもしれない。偶々、le Monde diplomatique 日本語版で decroissance「縮退」についてに記事を目にした。


http://www.diplo.jp/articles09/0908-4.html

これはとても面白い。密かにエコテロリストの準備を始めるよりは、ずっとまともな感じがする。もっとも、シャンベルタンをいただいて喜んでいるようではいい加減なものに留まる公算の方が高いのだろうが。

2010年6月24日木曜日

都のものだから

駅前の植え込みに立派な琵琶の木がある。今や朱色の実がたわわになっている。実においしそうだが、誰もとっている様子がない。
商店街にある通い付けの果物屋さんのおじさんに、「この際は、商店街で大きな梯子をかけて子どもたちに採らせて食べさせることでもしたらどう? 序でに、お店で売っているビワはもっとおいしいよ、とか言ってどうせ付き添ってくる親に買わせるってのはどうだろう」と提案した。ところが、おじさんはこともなげに、「あそこは都有地だから誰がとてもいいんだよ」。こういう感覚はいいですね。早速、試みてみようか。

2010年6月9日水曜日

地中海に沈められるガザ


700円で立派なメバルが手に入ったので、またアクア・パッツァを作った。今度はアサリも添えてみた。できあがったところでのスープは、実にこくがあり満足。しかし、アサリに火を通そうと数分余計にレンジの上においていたのは間違えだった。メバルの身がくずれるほどになってしまった。次回はアサリは抜きにしよう。一緒に飲んだのは、これまた700円のミュスカデ Muscadet Sèvre et Maine, 2008。スープにこくがあったので、先日のボルドー Entre Deux-mers のほうが合ったかもしれない。

Le Monde diplomatique の英語版6月号で同紙の編集者の一人 Alain Gresh は、ガザが「地中海に沈んでいく」というラビンの夢をかなえてしまう状態にあると訴えている。イスラエルの封鎖によって、ハマースが07年6月に政権をとるまでは、国境を越えガザに入るトラックは月間平均12000台だったのが、この4月には2647台で、ガザは今や07年6月以前に搬入されていた物資の22%しか入らないというのだ(国連のパレスティナ被占領地域人道問題調整事務所の報告による)。

彼は、イスラエルの今回の蛮行は、一昨年暮れからのガザ攻撃がEUによる他の大国同等のbilateral双務的な関係の承認直後に始まったのと同様に、5月10日のイスラエルのOECD加盟承認の直後に行われていることに注目している。南アフリカでのアパルトヘイトの際と同様のことが繰り返されているという訳だろうか。

http://mondediplo.com/2010/06/01gazasinks

http://www.ochaopt.org/

2010年6月6日日曜日

ガザ支援船団襲撃をめぐる宣伝戦


ガザに救援物資を届けようとしていた人道支援他団体の船団を、イスラエルの特殊部隊が公海上でまったく一方的に襲撃し、アメリカに次いで親イスラエルとされていたイラン船籍の船では、何と9人が殺された。大勢が負傷し、全員が「不法入国」と理由に拘束された。

さすがにイスラエル政府内部からも、これはPR戦での失敗との批判がおこっているらしい。
威嚇射撃によるガザ接近を阻むくらいのことは、予想されていた。しかし、かくもあからさまな国家テロが行われるとは、常軌を逸している。

http://english.aljazeera.net/video/

なぜこのような蛮行が公然と行われるのか。国連総長の腰の引けた声明、クリントン国務長官の事実調査を求める声明。この程度の反応しか出てこないと見通せる程のメディアでのイスラエルの圧倒。「昨年春のガザ攻撃に比べれば大したことはない」「あの時も大手マスメディアは“客観報道”に徹しておとなしかった」とイスラエルの政府と軍部はタカをくくっていたのだろう。


メディアでは圧倒すればよく、相手方の言論は無視し、こちらの報道の彼方に隔離してしまえばよい、反論する必要はない。これが当今のメディア戦術なのだろう。それでも、Avaazという国際的な運動団体などは、ガザ封鎖の解除と今回の襲撃の全面的調査を求めるアッピールを出して無視できない声を作ろうとしている。呼びかけから1日で、すでに20万の賛同が集まっており、その数は刻々と増え、もうすぐ50万に達しようとしている。このサイトを見ていると、文字通り地球は丸く、運動は国境を越えて広げることができると感じられる。

http://www.avaaz.org/en/gaza_flotilla_8/?cl=596803833&v=6436


当のイスラエル国内でも、政府を批判する街頭行動が広まっている。インターネットもばかにならない。

http://www.youtube.com/watch?v=LH5sXyrCFHo

2010年5月31日月曜日

ジャンボンハム




ドトールの前に「ミラノサンド・ホワイトチェダーとジャンボンハム」として新商品の宣伝が出ていた。ジャンボン jambon はフランス語でハムの意味だろうから、訳が分からない。フランス風のハムとでも言いたいのだろうか。ミラノ風ならprosciutto プロシィゥットと言うほうが素直な感じがする。

そう言えば、「カフェラテ」というのも何かお茶味のコーヒーか、コーヒー味のお茶といった感じがする。イタリア語でいう caffè e latte の意味なのだろうが、それなら発音に近い表記はカフェ・ラッテかカフェ(エ)ラッテだろう。かの地では、大体が朝あわただしく飲む牛乳主体のコーヒーだ。

しかし、「本家」と違っていることをあれこれアゲツラウのはお門違いというものだろう。Sushi と称してアボカドやらカニ風かまぼこにマヨネーズといった組み合わせがあるらしい。「それは寿司ではない」と言っても、食べている人たちが「おいしい、好きだ」と言うのなら、それまでのことでまさかに「こんなものをおいしいと言うあなたは間違えている」とは言えないだろう。まぁ、そんなことを言うのは野暮というものだろう。フランスやイタリアにジャンボンハムなるものがなく、ミラノにはミラノサンドがなくても、「うまい」といって食べる人がいれば、ミラノサンド・ホワイトチェダーとジャンボンハム」は存在するのである。「文句あるか!」というところ。


それにしても、「まろやかなのに、コクがあるホワイトチェダーチーズとモモ肉のハムと彩り野菜をサンドし、オリジナル特製ビネガーソースで仕上げました」というのはウーンである。

2010年5月28日金曜日

また植えた

天気は良かったが、昨日は雨だったのをあてにして、また鉢で育てた欅を職場の空き地に植えた。写真の手前は先週植えた柑橘類。左奥に赤い花をつけているミニ薔薇。その間で新緑が美しいのが新たに植えた奴。それぞれ脇に小さな棒を立ててある。右奥には先週植えた欅、中央奥には柑橘類。

どれだけ育つかは分からない。そのうち誰かに「**年度卒業記念植樹」とか、「**の宮、来校記念植樹」とでも書いてもらって、立て札を立てておこう。

2010年5月27日木曜日

簡単シチュー


ベランダのスープセロリやイタリアン・パセリが、どんどん葉を茂らせて行く。黄色くしたり、とう立ちさせてもつまらないので、せっせと摘む。サラダに使いたいのだが面倒。昨日はそこで豚の角切りを使って簡単なシチュウーを作った。豚300gに人参中を3本、メイクイーン4個、新タマネギを2ケ。この順で煮ていって30分。そこにパセリなどを散らした。なかなか見た目にもきれい。気温が下がっていたのでちょうど良かった。開けたスペインはレオンの700円の赤は、香りもバランスも良かったのだが少し重すぎた。

2010年5月17日月曜日

上州一之宮・貫前神社



上州一之宮・貫前神社に行ってきた。上越道を甘楽で降りて少しのところ。

まずは、参道が面白かった。初めに長い階段を上る。すると平らな所にでる。公園があったり、大きな樹々がありいかにも神社に来たという雰囲気がするが、肝心の建物は見えない。見回すと門が見える。行ってみると何とそこから下る階段があり、下に神社が見える。何ともわくわくさせられる空間体験だ。

大きな建物を仰ぎ見ながらその中に入って行くという体験は、これまで何度もしてきた。しかし、眼下に全体の配置をとらえ、その中に降りて行くという体験は初めてだった。威圧感がなくい。むしろ上から眺めた瞬間に建物との繋がりが生まれ、階段を少しずつ降りて行く中でそれは建物との一体感になって行く。なかなかの経験だった。

もう一つの感動は、大樹との出会いだった。門の脇に大きな銀杏と並んで迫力満点のスダジイがあった。目にした途端に、そこから発せられる何かの力に圧倒された。樹齢は千年に近いのではないかと思われる程の幹回り。力強いうねり。すさまじい迫力で迫ってくる。なんとも素晴らしい。

こうした樹々が残されているのも神社があってのことと考えると、神社はありがたいものだと思ってしまう。一日、この大樹を眺めていたかったが、後ろ髪を引かれる思いで再びクルマに乗った。

2010年5月16日日曜日

アクア・パッツァ


兼ねてから作りたいと思っていたアクア・パッツァ Acqua pazza なる魚料理を作る機会に恵まれた。フライパンに入りきらない程の鯛が、何と900円で売られていたのだ。これは買って食べてあげないと申し訳ない。鯛の顔を見るとどうしてもそう思われてくる。そういえば先月来、水やりで振り回されているイタリアン・パセリもかなり茂ってきた。

という次第で、魚と言えば刺身、次が焼き魚。蒸した魚などは、新鮮なものがとれないか、きれいな水のない可哀想な地方の料理と信じて疑わなかった僕は、思い切ってアクア・パッツァに挑戦した。

鱗と腸を処理してもらった鯛さんに、軽く塩をする。表にする方の背筋から下1cmくらいを横に、火の通りをよくするため骨まで深い切り込みを入れる。パンでオリーブ・オイル少々を暖め、そこに水気をふきとった鯛を先ず表を下にして入れる。慌てて蓋をし、しばらくして鯛の片面に火が軽く通った頃(まぁ皮に焼き色がついたくらい)に裏返す。そのタイミングでニンニクのみじん切り、飾りと軽い味付けにミニトマトを適当量(僕は半分に切った)、そして150〜160ccの水をドバッと入れ、再び急いで蓋をして蒸し煮へ。どちらかと言うと強火。待つことしばし。湯気がたってきたら少し火を弱め蒸し続け、数分たったところで火を止めてしばし蒸らす。

おもむろに(でなくても良いのだが、やはりドキドキする)蓋を開け、パセリを散らす。これにて終了。所要時間30分弱。

こくのある白が合う。本当は黒オリーブなども入れたいところだが、手元になかった。料理本には魚600gに対して、アサリ200gとあるが、面倒なので止めた。新鮮な白身魚なら大抵のものがうまく食べられるのではないかと思う。

写真の鯛のしっぽが切れているのは、フライパンに入らなかったため。僕たちは、白を飲みながら箸を使って食した。これをナイフとフォークで食べたらさぞ肩が凝ることだろうに。


2010年5月14日金曜日

タバコ狩り



福音館が出している『たくさんのふしぎ』という子ども向けの月刊誌がある。なかなか面白いので、地域の図書館に行くたびに立ち読みを続けてきた。その2月号「おじいちゃんのカラクリ江戸ものがたり」が、「内容に不適切な点がありましたので、販売を中止し」し、既に売られたものは回収されることになったという。不買運動の圧力によってとられた選択らしい。不買運動の先頭に立ったらしい一人は、この本にJTが経営している「たばこと塩の博物館」が協力していることをとって、「この”協力”には取材だけでなく何らかの要求と利益供与を含んだ関与であることが濃厚に疑われる」と言う。更に興味深いのは、「WHOタバコ規制昨組条約に違反する」と主張していることだ。

引き合いに出されているのが、「この条約及び議定書は、タバコの消費及びタバコの煙にさらされることが健康、社会、環境及び経済に及ぼす破壊的な影響から現在及び将来の世代を保護することを目的とする」という第3条の目的規定だ。不買運動の推進者たちは、どうやらこの条約の目的規定が直接に適用される国内効力をもっていると思っているらしい。しかし、この条約の目的規定が直接に国内適用されるものであるかは、自明のことではない。

まず、この条約の第4条(基本原則)自体が、「締結国は、この条約及び議定書の目的を達成し及びその規定を実施するため、特に次ぎに掲げる原則を指針とする」として、立法や行政上の措置の考慮などを列挙しているに留まる。この条約の目的達成のため、第4条で列挙されている事柄を国内で実施することを締結国に直接に義務づけている訳ではない。なるほど条約は憲法第73条3号によって国会承認されており、我が国は国際協調主義をとっている(憲法第98条2項)。

それに、この条約の目的の国内実施についての「基本原則」を締結国の指針とすることを受け入れたのは国(政府など)であって、個人や企業ではない。福音館やわれわれ一般市民は、確かにこの条約を締結した日本国の中にいる。しかし、条約締結国の中にいる企業や私人の活動を、締結した条約の規定内容に従ってどのように規制するかは、その国の立法府や行政当局がその国の憲法規定に従って決めることではないか。この条約の第4条の基本原則規定自体が”指針”とされていることは、締結国の立法や行政上の措置が当該国のさまざまな国内事情によって多様であらざるを得ず、条約によって一律に決められないことを条約自体が前提としていることを示しているのではないか。

個人や企業を条約の目的規定に直接に縛ろうという主張は、随分に乱暴だ。たとえ良いことであったとしても、それを実現するために、都合の良い法規定をつまみぐいしたり、個人を国の行為に無条件で従うべきものとすることは、おそろしく危ういことだと思う。

僕はニコチニストではないし、タバコの煙を吸わされるのは大嫌いだ。しかし、良いことなら強制しても良いとか、どんな方法で促進しても良いといった人々をみると、どうしても「良いこと全体主義」の危険を感じてしまう。

まずいとされた喫煙場面の絵
http://blog.goo.ne.jp/kuba_clinic/e/efab983a0f4c6a6200cd6d3f24db4860

福音館の回答
http://www.fukuinkan.co.jp/oshirase/goodsid20909.html

抗議文
http://muen2.cool.ne.jp/jyoho/jyoho.cgi?log=&v=151&e=msg&lp=151&st=0
http://blog.goo.ne.jp/kuba_clinic/e/44c2eef735f81878d953002adba35d25

タバコ規制枠組み条約(FCTC)
http://www.mofa.go.jp/MOFAJ/gaiko/treaty/pdfs/treaty159_17a.pdf

新学期が始まって1ヶ月を過ぎた。

2010年5月13日木曜日

自殺、12年連続3万人台


毎日360人乗りの飛行機が墜落し、90人が亡くなり270人が重い障害を負ったとしたら、これは社会問題になるだろう。一人の自殺者の陰にはその3倍以上の自殺未遂者がいると推測しておかしくないだろう。自殺者が12年連続して3万人を超えていることは、12年間にわたって連日360人乗りの飛行機が墜落し続けていることとさして変わりはない。

自殺者数が2万人台前半で上下していた長い期間が96〜97年を期に終わり、一挙に3万人台に跳ね上がったことだけを見ても、そこには個人的要因に解消できない社会的原因があるだろうことは誰でもすぐに考えることではないのか。この国の人々は自殺にもう慣れてしまい、それは社会が成り立って行く上で、忌まわしくとも不可避の、しかも克服不能なことであると思うようになっているのだろうか。

「**駅で人身事故があったため*分遅れます」というアナウンスがあると、「こんな時に止めてくれよ」「いい加減にしろよ」と呟きが聞こえたりする。サバイバル・ゲームに負けた者に対する軽い言葉。それが平気に感じられる日常になっているとしたら、やはり恐ろしい。

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2770.html

2010年5月12日水曜日

絶望的になる「トリセツ」


殆ど自宅に置きっぱなしでいた携帯電話を使おうとして、久しぶりで充電し画面を見ると何やらお化けでも出てきそうなチカチカとボンヤリしたものしか映らない。仕方なしに先週末にポイントとやらを使って機種交換に店まで行った。もっているポイントを使えば支払いなし、機能も簡単、「現在お使いのものと殆ど同じです」と言われたやつを選ぶと、在庫がないので暫く待てとのこと。それを今日受け取った。

ところが、「取扱説明書」というやつがひどい。304ページもあり、初めの6ページ目に訳の分からない言葉が出てくるので索引を引くと、その説明は60ページ目にあるという始末。目次だけでも6ページもある。ともかくも分かりづらい。何時になったら使えるようになることやら、先が思いやられる。

そういえば、半年前に「金を出せばもっと使いやすい奴に換えてやる」と言われ、ブルー何たらにも対応できるというDVDレコーダーを買った。ところが、このマニュアルも簡単版『らくらくガイド』が42ページ、詳細説明版『徹底活用ガイド』に至っては336ページ。とても読む気にならず、専ら僕をそそのかした若者が使うに任せている。

そんなマニュアルが悪いのか、そんなマニュアルなしには複雑な操作ができない多機能化がいけないのか、それとも僕が単に年老いただけのことなのか。僕は次々に機能を加えて行き、不可逆的に満艦飾になっていく“お便利志向”にこそ諸悪の根源があると開き直っている。かつても、自動車を買い替えるたびに前よりも大きく高性能のタイプに換えるのを当然のこととする大量の消費者がいた。ケータイ、自動車を持っていること自体が環境負荷を大きくしている。せめて少しでも簡単なもの、小さなものを求めるくらいの自制をするのがまともさというものではないのか。