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2009年6月30日火曜日

見知らぬ人との会話、そして告白


都心に用事があって銀座はPデパート地下のBでパンを買い込んだ。それを担いで蔵前のバス停でサンダルの留め金をなおすためかがんでから背を伸ばした。すると隣の女性から「そのパン、この近所でお買いになったのですか」と聞かれた。「いえ、東京では銀座のPの地下でしか見かけませんが」と答えると、うらやましそうな眼差しで「やっぱりあそこでしか売っていないのですよね」と言われる。

「神戸に本店がある店のようですから」と僕。「しっかりしたパンがわたしは食べたいの。ふわふわした日本のパンは駄目なのよ」と彼女。
以下、湯島で彼女が降りるまでお喋りが続いた。

ええ、そうですね。フランスのパン屋が入って来ても、最初はしっかり焼いていたのが、数年経つとふわっとした日本風になってしまう。僕は良く池袋のNのパンを利用していたんですが、一昨年あたり、例の穀物高騰のあおりを受けたあたりから全然ふわふわになってしまって駄目。どうも小麦が値上がりしたためだけではないようです。

「わたしは、Kなんて良いと思っているんだけれど、菓子パンみたいなものが多くて、日常用のものは少ないし」

そういえば、最近フランスから入って来たチェーンだけれど、Pは結構いいと思います。都内にもいくつか店があるし、一度だまされたと思って買われることをお勧めしますよ。北フランスからフランドル風らしいくて、パリ・ベースではないようです。暫くストラスブールにいた時には、良くそのチェーン店を利用しました。

「わたしはデュッセルドルフに長いこといたんです。だから日本のパンが物足りなくなってしまったみたい」

所詮はパンはあちらの食べ物だから、麦も水も湿度も違う日本では仕方ないのかもしれませんね。この国であっちと同じモノを食べようなんてこと自体が贅沢だと思っています。でも、おいしいものはおいしいから困ってしまう。

「ええ、一度おいしいモノをたべちゃうとなかなか、、、」

こんな調子で話しが進む。なかなか初対面の知らない人とこんな会話はできない。なぜだろうか。歳をとったからもあるだろう。
それより、共に外国暮らしを経験していたからだろうと思う。この20年以上、この日本では初対面の人、知らない人に対する警戒心が高まる一方だと感じる。あるいは警戒心よりも自分が属している協調とワンセットになっている排他が強まっているせいかもしれない。

ところで、村田良平という元外務次官だった方が、5月30日に「共同通信」が配信した「核密約」があったことを証言した元外務次官4人のうちの一人であることを認めたという。米軍核搭載艦船の立ち寄りを日米安保条約上の「事前協議」の対象外とした核持ち込み、沖縄返還の際の核持ち込みや基地の原状回復費肩代わりの密約などについて、省内に文書があり歴代次官が引き継いできたというものだ。

村田さんは79歳。この歳にならないと名乗れないのか。それとも、語っただけマシと言うべきか。

人は一人では語らない。人と語る関係がなくなった時、その人は社会的には死を迎えているのかもしれない。こんなことを考えていたら、ピナ・バウシュが亡くなったという悲報が届いた。

4年前にパリで彼女の振り付けでオルフェオを見る幸運に恵まれた。身じろぎもせずに舞台を凝視した2時間だった。
タバコの吸い過ぎではなかったのか。

2009年6月28日日曜日

平たい関係

引越して来て以来、初めて人に来ていただいて食事を共にした。なぜか女性ばかり。勿論、ぼくが魅力的な男性だからではない。「今度、いらして下さい。一緒に飲みましょう」とか、「丁度、**さんと食べているところですが、宜しかったら混ざって下さい」なんて結果が、そうなった。



きっかけは、ある人から共に蒙った嫌なことの毒気払いだったのだが、他人の悪口を言い合うでもなく、開けっぴろげに楽しい時間を過ごした。女性たちは、わが連れ合いを入れると、およそそれぞれの年齢差が10歳違いくらいだった。それでいてオトコたちの場合なら必ずといってよい程に醸し出されてくる上下感覚がまったく感じられなかった。女性の方が、差別経験の率や度合いが高いからだろうか。うらやましい程だった。

開けた葡萄酒は2本! そういえば皆、専門職についている人ばかりだった。

2009年6月26日金曜日

ジャガイモと手羽先



付属農園でジャガイモを収穫したと聞いて昼の休み時間に出かけて行った。仕分けを手伝って「商品にならない」というチビ芋を2袋も貰って来た。

たまたま手羽先をたっぷりと買っていたので、一緒に煮込んだ。本当は手羽元の方がこの料理には良いのだが、万事安上がりを心がけなくてはならない者としては、「まぁ何とかなるだろう」でやってみた。まぁ何とかなるできばえ。500円の赤と楽しんだ。

2009年6月24日水曜日

多数決の正当性根拠

ある組織の意思決定機関で、そのメンバーの意見が分かれ中々まとまらなかった。遂にある人が「もう時間もないし多数決で決めましょう」と言った。多数決での決定を提案した人は明らかに少数、それも単独少数意見だったので、司会役の僕はこれ幸いとさっさと多数決での表決をした。

ところがその後、驚くべきことが起こった。

「皆が間違えているのにどうしてそれが多数だからといってそう決まるのだ! 自分は正しいことを言っている。何が本当に正しいかが分からないで間違えているのは皆さんの方だ。確かに自分は多数決で決めようと提案した。しかし、だからといって自分の主張を引っ込めるつもりは毛頭ない。なぜなら自分の主張は正しいからだ。正しい主張を曲げることは、自分の良心が許さない。私は決定には従わないで独自に動く」

まあ、少し格好よく言うとこんな理屈で、自らも構成員である代表機関の会議で自らも加わって決めたことに対して、その人は堂々と反対行動をとり始めたのだ。これには驚いた。

しかし、気弱な僕はふと考えた。果たして彼の行動はおかしなことだろうか? 改まってこう問われると、なかなか答えにくいのではなかろうか、等々。

反対行動をとるなら、自分が加わっている代表機関から辞職/脱退する等して外れ、その後に行うのが筋ではないか? まして、自らが提案した決定方法に従って決まったことに対してならなおさらではないか? こんなふうに、これまでは考えて来た。しかし、彼のような頑固真実主義に対しては、こうした考え方は「中味を踏まえない単なる手続き論だ」として粉砕されるのではなかろうか等々。さて、どうなのだろうか。

2009年6月19日金曜日

カラスアゲハと合歓の木




空回りした授業を終えて階段を降りようとしたら、合歓の木の花が目に入った。一年前まで住んでいた団地の隣にもあった。そのときは下から見上げていたのが、今度は上から花の様子を見ることができた。見とれていると、何とカラスアゲハがやってきて密を吸う姿を見ることができた。黒アゲハではない。あの群青色の金属光沢の輝きのある孵ったばかりの夏型の大きなカラスアゲハだ。うっとりと見とれた。



去年のブログに合歓の花について書いたのは7月に入ってからだった。同じ合歓でも咲く時期が異なるのだろうか、それとも今年は暑くなるのが早いのか。

2009年6月17日水曜日

瑠璃タテハ



今年、初めてのルリタテハを見た。

最初に見たのは小学校5年生のときだった。奥多摩の三條の湯から降りて来るときに、ルリタテハの群舞を見た。深い森を歩いていると、樹の間をぬって差し込むスポットライトの中でルリタテハが小さな水場で舞っていた。その時の感動と光景は50年を経た今でも生き生きと蘇る。

その感動の機会を与えてくれたのは、確かにあの金銭的には恵まれていたとはいえ、惨めとしか言いようのない人生の終わり方をした僕の父親だった。とかくに親子関係はややこしい。

2009年6月16日火曜日

先生と呼ばれる程の、、、



「先生と呼ばれる程の莫迦でなし」とかいう言い回しがある。元は川柳らしい。

ときどき学生に、「センセイと呼ばれる職業はどれも評判が良くないじゃあないか。医者、弁護士、議員、そして元祖センセイたる教師。こういう職に就いている人に対して、多くの人が「センセイ」と呼んでいるのは別にその人を尊敬しているからじゃあない。むしろ内心は「こう言っておだてておけばいい気になる莫迦」くらいに思っていたりしながら、適当に使っていると思っていた方がいい。まずは皮肉か褒め殺しのことだと思っておいた方が良いのではないかい」と言ったりする。

すると必ずと言ってよい程に、一定数の学生は嫌な顔をする。そう言えば、先日、小学校での教育実習で子どもたちに自己紹介をする場面を想定して、やってもらった時にも、何人かの学生は最初から「センセイの名前は**と言います」などとやっていた。自らセンセイと称して自己紹介しようとする学生の多くは、自信満々な振る舞い。

自らを先生と呼ぶことは、そういう関係をいわば押しつけることになりはしないか。それ程に君たちは偉いのか? それとも、自分からそう称さなくては不安なのか。この点を尋ねるべきだったかもしれない。

僕自身は、職場では同僚同士でも互いに先生呼ばわりはしてこなかった。かつては学生の前でもそうしていた。ところが、途端にどういう訳か「友達付き合い」を求めて来たりする学生が出て来るようになった。

職場の外では、そう呼ばれたときには勿論お断りするか、知らん顔をする。時々一緒に仕事をする弁護士たちは、互いにセンセイ呼ばわりしている。そんなことでは先ずは法曹数拡大の時代をまともに生き残れないだろう。そうからかうと、嫌われたりすることが未だ少なくない。疲れる。

池田信夫という僕とはおよそ社会的構えや考え方の違う方のブログにも、「このごろは外人も「先生」をつけるようになった。日本の事情にくわしくなると、政治家とか教師とか弁護士とか医者とか、社会から馬鹿にされつつ形式的に尊敬されている職業につける敬称であることを理解するらしい。」とあった。彼が外人なんて書いているところからすると、あるいは「先生」呼ばわりについて気に触るような人は、当今では少し古風な感覚の持ち主であるのかもしれない。新しい先生社会の出現というわけか?

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/05c20e709b62373870e67914aa3c88fc

ところで、先日紹介した学内のあの「お花畑」は、草刈りできれいさっぱりと刈り取られていた。

2009年6月15日月曜日

必要だった4年間か?



遺産分割をめぐって妹弟から出された調停が、ようやく終わるところまで来た。4年越しの終結。
2月21日に書いたように僕のいわば完敗。どうせそのような結果になるのなら、最初から諦めてしまえば、余計に辛く苦しむこともなかったのかもしれない。

しかし、どうやらこの4年間の苦渋は必要な過程だったと思う。自分は自身で思っていた以上にお人好しであることを確認したこと。親子関係の欺瞞に満ち満ちた真実を知り得たこと。その中で自分の抱えている困難に気付かされたこと。金銭が人を如何に愚かにし、また嫌らしくするかの魔力の怖さと、人生の時間の貴重さを学んだこと。そして何よりも、忍耐力など自分自身の人間性がいささか深まったこと。

体重は6〜7kgも減って、総てのベルトは短くせざるを得なくなった。しかし、これはこれで僕にとっては必要な過程だったのだろうと思う。おかげでコレステロール値も減ったし、悪いことばかりではなかった。勝手に「苦悩は忍耐を、忍耐は知恵を、知恵は希望を」とかいう新約ローマ書だったかの言葉を思い出した。訳によっては、この「知恵」とあるところが、「練られた品性」とか「徳」、「練達」とあったりするのだが、元のギリシャ語(?)を知らない。

2009年6月14日日曜日

オトコは辛いか?



一週間たまった新聞を読んだ。
アノ鳩山総務大臣の解任の記事が笑わされた。曰く「自分の信念を曲げたら男じゃない」。
暴言、大向こう受けだけを狙った大口ばかり。彼と並ぶと首相の方がずっと品(スーツの仕立てのことではない)が良く見える程で、端から見ていれば何と劣等感の塊といったご仁だった。それが最後にも遺憾なく発揮された次第だ。

なぜここで「オトコ」が出てくるのか。余程に「男の子なら**しなさい!」とか、「それでも男か!」とか、「男らしく**しろ!」とか長年にわたって教え込まれ、刷り込まれたのだろう。だとしたら可哀想なことでもある。

そう信じ込んでいて、自分だけで悩むなら傍迷惑ではない。ところが、そう信じ込んでいる人は得てして、女性が信念を貫こうとすると、「女のくせに生意気な」とか、「女は愛敬」とか、挙げ句の果ては「女はオトコに従っていればいいのだ」などと、実に傍迷惑なことを喚いたりする。<自分が奉じている信念まっしぐらはオトコの証し・専売特許主義>から、大胆に飛躍した命題を唱えて平然としていることが少なくないのだ。ということは、<信念一直線はオトコの証し>主義と<信念オンナは生意気>は、どうやら一対の命題として刷り込まれているかのようだ。そんな感じがする。

とかく<信念一直線>は辛いことが多い。そこでその辛さを耐えるための補強として<信念まっしぐらは男の証し>主義と<信念オンナは生意気>とがワンセットになる。これが僕の仮説だ。とかくオトコでいることは辛いものらしい。植木等(という偉い方がおりました)じゃあないが、「はい、ご苦労さん」。




空き地にピンクのお花畑が広がっていた。オトコはこんなピンクの花は見向きもしないものらしい。という次第でご紹介。

2009年6月12日金曜日

形にはめるだけ



学内の緑がどんどん濃くなって行く。どうやらこれを見に行くため、その緑の下に立つために行くかのようなことが増えていて少しく憂鬱になっている。というのは、改めて以下のようなことを思い知らされる事があい続いたためだ。

「正解」があり、それを覚えれば点数になる。これが勉強だと思い込んで信じている学生が多い。従って、過去問なるものの傾向を知らせ、それに当てはまる「正解」を覚えるコツを伝えるのが上手な者が「良い教師」ということになる。

何も考えない。ただひたすらに覚える。「それならコンピューターの方がましではないか」と意地悪を言ってやると、「はい、自分たちもそう思います。違いますか」と来る。自らをまるで機械に貶めている。

その結果かどうか分からない。教室に入るなりエアコンをつける。設定温度を見ると23度。2階、3階に上るにもエレベーターを使うことを何とも思わない。4階から降りるのにも勿論エレベーター。”安楽の全体主義”にとっぷり浸かっている。
そして「環境にやさしい何タラは」というお勉強をする。「過去問」にない問題を出す教員は嫌われる。

「勉強」の成果を試験以外の場で生かすことは初めから考えていないか、現場で生かすとしてもそれは覚え込んだ「正解」にあてはめることでしかないと信じて疑っていない。「過去問」にはない事態に遭遇すると分からなくて当然、対処できないのは「習っていないのだから自分の責任ではない」という次第。

それだけなら未だマシだと言うことに最近気づいた。彼らの多くは、そういう「お勉強」で良い成績が取れる者は、「頭が良い」を信じて疑っていないことだ。この傾向は、上位の「成績の良い者」と下位の「成績が悪い者」との二つの端で高くなるようだ。その結果、前者には度し難い傲慢さが骨の髄までしみ込んだりする。これまでにも、「競争が厳しい入試なら、同じくらいの難しさの試験をやりなおせば殆どが入れ替わってしまう。東大なんてその典型だ」等と言うと、まるで自分の全人格を否定されたかのように、「絶対にそんなことはない」と顔色を変えて反論した人に何人も出会った。

後者の場合は、劣等感。最初から「どうせ自分のアタマは良くないんだから」と自己暗示にしっかりと囚われていたりする。「生まれつき良いアタマと悪いアタマがあるのかい。身長差だって2倍の差は例外で、1を標準にすれば大体の者が、0.9から1.1くらいに入ってしまうじゃあないか。そんな親不孝なことを言うものじゃあない」と古風な説教をしたくなる。自ら「どうせダメ」という重りをつけ、どこに行くにもそれを引きずっているから、あるはずの能力も発揮されず、出るはずの力もでない。そして言う;「センセイだってそう思っているでしょう?」。そう言われた僕には、この国に古来からある「先生と呼ばれる程の莫迦でなし、、、」とかいう言葉がなぜかよぎる。

2009年6月10日水曜日

本の処分



隙き間時間をぬって本を処理している。今日は以前に勉強しようとしていたフランス憲法関係の本を棚から下ろした。
社会主義を掲げる左派政権のもとで、憲法がどうなっていくか見たかったのだ。社共の連立政権はつぶれ、僕はフランス語を読む時間もなくなった。それなのに本だけは残ってしまった。

それから30年近くたっている。古本屋に売っても紙くず同然の値しかつかないだろう。なぜしこれまで処分しなかったのか。単に無精だったからに過ぎない。それとも本をもつことに何か特別の意味があると錯覚していたのだろうか。

夕方は梅雨の中休みのような、小さな夕焼けだったらしい。




帰宅が遅れたので、あわてて豚ニラ大根を作った。こいつのレシピは去年5月7日に書いた。
鍋の左にあるのは、使って乾かしたティーパック。鍋や食器を洗う際についた脂をこれでぬぐい去るのに使っている。

2009年6月9日火曜日

梅雨入り



東海地方は梅雨に入った。それでも花の季節。
学内を歩いていたらピンク色のお花畑を見つけた。

誰も見にきているわけでもない建物と建物の間。
園芸種になったものが、何かのきっかけで元の地面に戻ったのだろう。ピンクは少し派手に感じられるが、可憐で何とも心が安らぐ。どうして眺めにくる人がいないのか分からない。

2009年6月8日月曜日

面白い経験をしたと考える



私事にもなるが、この約4年半の間はひどい経験の連続だった。
まさかに還暦を過ぎてからこんなことが立て続けに起こるとは思ってもいなかった。60歳といえば初老である。穏やかな暮らしになって当然と思っていた。今にして思うとそう思う根拠はまったくなかった。

昨年は半年でそれまで30年間以上保ってきた平均体重を一気に6〜7kgも減らしてしまった。おかげでどんな古いズボンでもはけるようになった。しかし問題はベルトで、これが腰の周りをぐるぐる回ってしまう様になった。ベルトとしての用をなさないのだ。

ひどい経験といっても、辿ってみるとその原因は、それぞれなりにずっと以前から準備され、種がまかれていたことも分かってきた。なるべくしてなった。それが一時に集中したから応えた。とはいえ一時に集中したことにはそれなりの原因もあるのだろう。まだその原因までは分かっていない。

「何か悪いことでも私たちがしたって言うの?」と嘆くこともできる。悪いことが連続してやってきたことには相互連関があり、予想の範囲を越え重なってやってきたからには、その原因は自分たちにあると仮定した方が合理的ではないかとも考えたくなる。「悪いことがある時に限って悪いことが起こる」という何とかの法則というやつ。

しかし、まずは「とんでもないこともこの人生にはあるものだ」、「めずらしい経験をさせてもらった」と思うことにした。悪いことが連続して重なったからといって、その原因が自分たちにあると仮定するのは飛躍し過ぎというものだろう。

先週、大収穫した枇杷の樹を見たらみごとに実がなくなっていた。聞くと昨日は鳥が群がるようにやってきていたとのこと。今年は人間殿の勝利。にんまりとした。

2009年6月5日金曜日

世界史未履修問題



中世史を研究している若い方と雑談した。僕はロマネスクの教会建築などに興味があるので、色々と面白い話しを伺った。
そのうち、ついつい共通する仕事である学生教育の話しになってしまった。やはり自分は真面目さから離れられないなあなどと思いながら、あれやこれやと互いの悩みを語り合う。

そのうちとんでもないことが分かってきた。僕が「ウェストファーリア体制といってもキョトンとしている。オスマン帝国もキョトン、ワイマール憲法もキョトン、キューバ革命も朝鮮戦争もベトナム戦争もいつ頃のことか知らない。そのくせ北朝鮮の脅威なんて言っている」等々と、憲法や政治を学ぶ上で、当たり前の前提知識として少しは知っておいてくれないと困る近現代史について学生たちが余りに学んでいないことを嘆くと彼はとんでもないことを言った。「僕のゼミで中世の南イタリアを取上げたんですよ。当時の歴史地図を見せて、“ここにポンペイがあるね”と言ったら、全員がポンペイを知らないんですよ」。歴史学のゼミに希望して入った学生がポンペイを知らないというのだ。

これには仰天した。僕のゼミで尋ねると、「世界史の時間は地理をやっていました」、「カノッサの何とかというあたり迄、やった記憶があります」、「僕のところは、教師が “世界史は広いから、全部やるのは意味がない。ある時代を深く学べば後は自分で学べるって言って、ローマのことしかやりませんでした」などという応えが返ってきた。

そのくせ学生たちに「社会科って学ぶ意味はあるの?」と聞くと、申し合わせたように「過去の過ちから学び、未来に生かす」なんて答えが返って来たりしているのだ。一体、どうなっているのだろうか。

2009年6月3日水曜日

"野生"の枇杷



研究室を与えてもらっている勤め先の建物の入り口に、枇杷の木がある。毎年この時期になるとぎっしりと小さな実を付ける。それが今頃はおいしそうに色づく。下の方にある実は随分に採られてしまった。しかし、最もよく陽があたり、おいしそうに色づいている上の枝にある実は、毎年鳥に喰われるか、雨に打たれて腐っていくかの運命を辿る。

そこで今年は、積極策に打って出た。樹に登って採る。梯子をかけ園芸用の長い枝切り鋏を使って、上手そうなところから採っていくという積極策だ。

昨日、今日とニコニコしながら大勢で収穫した。無農薬にして無肥料。小粒だがそれが実にこくも甘みもありおいしい。そこらの店に売っているものの比ではない。

実にたくさん取れたので、このおいしさを分かち合いたいとばかりに手当たり次第に近くにいる人に持っていった。ところが、そのうち半分くらいの人たちがなんと、「これ本当に食べられるのですか」と言うではないか。これには驚いた。キノコならまだ疑うのは分かる。枇杷ではないか。一体どういうことだろうか。

おそらく天然自然に生えている木の実や草の実を口にしたり、魚や四つ足の動物を食べた経験がまったくないのだろう。食べ物といえば店で売っているもの、それが如何にして店先に並べられるに至るかなど想像することもなく、「店で売っているものこそ食品、食料」だという観念にしっかりと囚われているのだろう。

「それでいい、それでいい。旨いものはこっちでしっかり食べてやるからね」と僕はつぶやいている。ちなみに僕の配偶者は、かつて海辺で小さな蛸を見つけ、僕がそのかわいい姿に見とれていた時、「早く! 袋よ! ふくろ!」と叫び声を挙げた。聞くと捕まえて持ち帰り食べようとしたらしい。上には上がいる。

2009年6月2日火曜日

Wii Fit



家人が Wii Fit なるものを買ってくれた。
そんなもので何ができるのだ、と頭から疑ってかかっていた。大体、大空の下ではなく室内で運動しようということからして気に入らない。何か囚人のような気分になるではないか等など。

ところが、つられてやってみると、これがハマる。「大体、あなたは夢中になると際限なくなるんだから」と言われてしまった程。
ある種の達成感をその都度感じさせながら進めていくのが、ハマってしまう原因なのだろうか。僕はバランス感覚がおそろしく悪いことも分かった。一年前には広々とした河川の土手をジョギングできたが、今は生活にゆとりがなくそれもままならない。ならば当分は Wii Fit のお世話になるかと思っている。