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2008年12月12日金曜日

法曹というもの

久しぶりに学生と裁判傍聴に行った。

以前にも増して気になったのは、裁判官や検察官たちの人を見下したような視線だ。

法律のド素人である普通の人が、緊張したり、後悔や屈辱感に耐えながら喋る。他人に分かりやすく話したり、説得的に語ることを練習等したこともない人々が大部分だ。確かに喋っている内容には、時には愚かしいこと、聞いていて腹立たしいこともある。しかし、自分の代理人である弁護士の質問にすら答えられず黙してしまう場合もあることを含めて、それぞれの人なりに懸命に何かを伝えようとしていることは確かだ。そこには生活の重大事、時とすると人生の流れを変えてしまう程のことが係っていたりする。

なるほど、裁判は法律に基づいて進められ、法律に基づいて判決が下されなくてはならないものだろう。しかし、殆どの一般人は、自分が語る言葉が、裁判の規準となるその法律にどのように関わるかを知らない。そのような素人が語っているのであること位は直ぐに分かる。にも拘らず、殆どの裁判官や検察官の構えたるや、その素人たちが語るつたない言葉から、自分たちの仕事を進めるうえで都合の良い片言隻句をつまみ取り、少しでも短時間に効率よく「一件落着」を計るかばかりを考えているといったもの。これはかなりまずいことではないだろうか。

司法試験の合格枠が広げられたからではなく、おそらく司法試験に合格する機会を得られるような社会階層の幅が狭くなっているからではないかと感じた。いわゆる「進学校」に進めた連中、中高一貫の学校や幼稚園や小学校の段階から有名私学に入ることができる家庭で育った連中。親の年収が少なくとも1千万以上、友人には親の年収が2千万以上の奴が少なからずいるような連中。親は別荘をもっていたり、少なくとも中高校までに家族での外国旅行を経験しているような連中。

お金持ちの出身であるというだけでまずいという訳ではない。しかし、もし彼らが周りがお金持ちばかりの「良い環境」とかの中で育った人であるならば、そういう人たちに「家庭の事情で進学を断念した」人々の辛さ、頑張って真面目に働いていても報われない人々の悔しさは、一体どのようにして感じられるだろうか。「他人の苦しみは当人しか分からないもの、所詮は他人には理解できない」という前に、理解しよう、その他人の身になって内側から考えてみようという気持ちになるか、あるいは、自分が他人の気持ちをよく理解できないでいることをせめて自覚できるか。こういった問題だ。

2008年12月8日月曜日

運動不足



今年の紅葉は冴えない。十月が暖たかったためだからと言うがどうだろうか。この時期に美しくなる学内の欅も、ただただ茶色にみすぼらしさを増している。クヌギや小楢の雑木林も今ひとつというところ。そのなかで、イチョウだけが一人燃え上がっている。

自転車で通勤しなくなったら、身体を使う機会がめっきり減った。
それなのに、この半年で平均体重は6kgおちた。さまざまなストレスと、睡眠不足が原因であることは分かっているので不安にはならない。しかし、体力の衰えが痛切に感じられ、つい今後の人生を考えてしまう。老人になったということだろう。

それにしても、鏡にうつる自分の顔の無内容さには今更ながらに愕然とする。暖かな人生を送ってきて中味が作られないままでいたのが、急に肉体の老化にぶつかったといったところか。今年の紅葉のありさまに似ている感じがする。 

2008年11月30日日曜日

ライトアップ



いつから始まったのか知らないが、暮れになるとそこらじゅうでライトアップ騒ぎが始まる。出所はおそらく西欧で、それをUSAの「田舎者根性」が真似、それが更にUSAのやることならなんでも結構と思う人が少なからずいるこの国にもはびこって来たのだろう。

耶蘇教の建物などには殊の外に興味があり、わざわざフランスやイタリアの田舎まで出かけたい僕なのだが、どうにもこのキリスト教に由来するらしいライトアップにはうんざりする。

夜の地球を人工衛星からとった世界地図がある。明るいのは先進国、アジア・アフリカの一部の大都市、そして日本海のイカ釣り漁船。一年の最後くらいは余計な明かりを消したらどうかと思う。

2008年11月19日水曜日

夕焼けには困る




今朝は雪ですっかり白くなった富士が、街中からもきれいに見えた。

16時過ぎ、南側にある給湯室に行って外を見ると、高層雲の畝が連なり、その上にこの季節らしいうろこ雲が薄らと広がってて何とも美しい。建物に邪魔されずに眺めることのできる場所を探してウロウロしているうちに、休み時間が終わってしまった。後ろ髪(しかない)を引かれる思いで研究室に戻る。

後で聞くとその後の時間の夕焼けが素晴らしかったと言う。残念至極。一回限りだから困る。夕焼けで人生について語るのは大袈裟かもしれない。しかし、二度と繰り返されることのない中で生きていることを改めて思う。繰り返しの効くものは人口の複製ばかりと言ってよい。複製文化のなかにどっぷり浸かっているためだろう、何を捨て何を選び採るか、この厳しさを夕焼け一つで思い知らされてしまう。

2008年11月17日月曜日

またまたヒラタケ



先週末、また木工芸作業室の外に置かれた朽木に、みごとなヒラタケが群生し始めているのを見つけた。土曜日曜と雨もあったので期待して、足取りも軽く行ってみると、立派に傘が広がっている。早速、少しをオリーブオイルでソテーして賞味した。出会った何人もに声をかけたが、誰一人乗ってこない。「既に先々週に同じものをおいしく食べなんともなかった」といっても、「**センセイだから当たらなかったのでしょう」と、まるで僕がスーパーマン的に強靭な消化器を持っているかのようなことまで言う。一体、何のためにキノコの図鑑があるのやら。

2008年11月4日火曜日

都内は自転車



今日は学園祭の後片付けとて大学は休み。それを利用して、内容は愚劣極まる私用のために新しい住まいから四谷まで約7kmを自転車で往復した。実に快適だった。スポーツジムの室内で自転車こぎをして金をとられることを考えれば、交通費以上のものをもうけた感じもする。

それにしても東京は色々な坂がある街であることを再発見した。地下鉄に乗れば、最短で片道190円、26分かかる所。ほぼ同じ時間で快適に走った。

2008年10月26日日曜日

ヒラタケ?



勤め先の木工作業室の外にある丸太に立派なキノコが生えて来た。
暫く成長を見ていると、僕にはどうしてもヒラタケに見えてくる。
食べたい。そのことを言うと、殆ど誰もが一歩退いて「毒じゃないですか」と言う。
しかし、余りに立派なので、僕はスーパーの袋一杯分を収穫して、調べることにした。



ところで僕はこの半年余りで、20年来保っていた平均体重56〜57kgを51kgを割るまで減らしてしまった。
おそらくはストレスによる減量で、けっして筋トレによるものではない。コレステロール値も激減した。良い気になっていると健康診断で「精密検査をしろ」という医師の指示が下された。この年齢になるとつい万一を考える。そして、それならば怪しげなキノコを食べるのも良いのではないかと飛躍してしまう。相変わらずのアホだと我ながら思う。

2008年10月8日水曜日

ゴミ



引っ越したアパートの間取りは、3LDKということになっている。友人に気軽に集まってもらえるようにするため、居間(LDK)部分の広いアパートにした。すると当然に、私たちが買える広さのアパートだと、他が狭くなる。連れの部屋も私の部屋も、まるで宇宙船のカプセルのように狭い。机と椅子、本棚、ベッドだけで室内は一杯になり、その合間を身体を横にしたり斜めにしたりして目的の所まで辿り着く。

本を減らさなくてはならない。
ある程度は減らさなくてはならないことは、引越前から分かっていた。しかし、飾りのために買った本はない。仕事のため、また何回か読むためのものが大部分だ。それでも減らさないことには、人間的生活ができる空間が作れない。辛いとしても、図書館に頼ることを基本にする程の大転換が必要になる。

しかし、引越で驚いたのは本ばかりではない。未だ使えるが陳腐化したために捨てざるを得ないものの膨大さだ。流行遅れになった衣類くらいならまだ分かる。例えば、カセットテープ。20代にはベートーヴェン、30代にはモーツァルト、バッハ、それ以降はバロックなどの古楽。段ボール箱二箱。次いでCD。これまた段ボール箱1箱半。おそらく今では、その大部分はインターネット上でアクセスできるだろうし、そうでなくても電子情報かしてとっておけば済むものだ。

幸いに私はLPは数枚しかもっていない。戦前にSPで集めていた人の悲哀は知っていたが、それほどに投資していなかった私自身についても同様のことが起こるとは、PCが生活の中に入って来ていながら分かっていなかった。

そのPCそのものについては、もっとグロテスクな問題がある。最初に買ったNECの98だったかが最も高かった。処理速度も遅く、容量も小さい。5インチのディスクに何枚記録したことだろう。それが3.5インチのディスクになり、そして今では小さなメモリーになっており、その容量も価格も指数関数的に安くなっている。当のPCの処理速度や容量は10年前とは比べ物にならない。

となると、以前のPCは未だ使えても、またサポートがあってもゴミになる。途上国に運ばれて使われるとか、内部に使われている希少金属を再利用しているから「PCを大量に廃棄し続ける都会は希少金属の大鉱山だ」なんて云う人がいるらしいが、どうもうさんくさい。必ず自然界に還元できずに残るゴミがある筈だ。

そんな大量生産・大量消費を余儀なくされている我々の生活。産業革命以前に戻るべきではないか等とふと思ったりしてしまう。

2008年9月27日土曜日

引越



拠ん所ない事情から、新座から都内に引っ越した。
二重のオートロック、監視カメラだらけの「マンション」。エネルギー多消費型の、お世辞にも感じが良いとはとても言えない建物。
しかし、12階なので空がよく見えて気持ちがよい。自称、cloud appreciator の私には眺めていて飽きない光景が広がる。
とはいえ緑は情けない程に少ない。ヴェルヌの「80日間世界一周」だかには、気球の下に展開する江戸の街は箱庭のように美しく、愛らしいと書かれていた。それが今では醜悪といったほうがよい街の姿だ。その反動でだろうか、樹々の多い埼玉の職場へ通うことが新しい楽しみになった。

2008年8月30日土曜日

引越しと別れ



本の整理を始めたのは、近いうちに都内に引っ越すことになったからだ。

住まいは狭くなるため、色々な物を捨てなくてはならない。場所をとっている本は勤め先の研究室に一時的に避難させ、退職までの数年間で見通しを付けることにした。やっかいなのは、それなりのカネを工面して買ったいくつもの家具を処分しなければならないことだ。もっとも、よくよく見ると、人に残すようなしっかりした出来のものは殆どない。「長年世話になりました」と別れることにした。

辛いのは、自分自身にかかわる物である。色々なな記憶がまざまざと甦ってくる細々としたものども。懐かしさ、楽しかった時。物を捨てたからと言って思い出がなくなるわけではない。とは言え、まだ気持ちの整理のついていない思い出も少なからずある。辛い。そして、それだけではない。「どうしてこんな物をとっておいたのか」「そのうちやろうと思っていたものがこんなに」、それらの物が放って置かれた時間を考えると、痛烈な批判が突き刺さってくる。

そして第三には、これからの人生のことだ。やりたいこと。まだ、やるべきと考えていること。それだけでも随分に広く多い。この歳になっても少しも諦めていない自分がある。しかし、冷静に考えれば、残された時間にできるであろうことは厳然と限られている。「そんなものまで抱えていたら結局何も出来なくなるよ」と、賢い我が連れ合いは強く言い放つ。そうだろうと思う。問題は、これからの人生で、いったい何をすることができる条件をあるのかの見通しが付けられず、また本当に何がやりたいのかを決断することができていないことあたりにあるのだろう。

2008年8月18日月曜日

昨日の続き

61年名古屋市立城山中学校の生徒手帳続き

「生活の目標」
◎ わたしたちの学校と仲間を愛そう。
◎ わたしたちはつねに「なぜ」と考えよう。
◎ わたしたちは実行する勇気をもとう。
◎ わたしたちは生きた学習をしよう。
◎ わたしたちはねばり強いからだをつくろう。
◎ わたしたちはひやかしやかげ口をやめよう。
◎ わたしたちは自分の行動に責任を持とう.
◎ わたしたちは はたらくことによろこびをもとう。

この第2項、第3項を今、公然と掲げている公立の中学校がこの国にどれほどあるだろうか。

「礼儀作法について」
これも前文の視点が良い:

礼儀作法を知らないということは、自分の品位をおとすことです。
りっぱな社会人として独立できるように多くの人から信頼を得られるように努めましょう。

1〜8はまあどこの学校でも書かれていそうなことだ。ところが、最後には、

9.討論,その他 話し合うときは、他人を意見をよくきき、静かに正しく判断し、また自分の意見も正しく発言しましょう。
自分の思っていることをそのままいえるということが人間として一番ねうちのあることです。

教育学部で教員をやっているせいか、ため息が出てくる。

2008年8月17日日曜日

戦後民主主義教育

余儀ない事情があって、書籍を含め持ち物の処分を始めた。
これは今後の人生をどう送るかの覚悟を決めていく過程の一部でもあるのだろうが、まずはこれまで自分が送ってきた人生と向き合う作業であって、実に精神的負担が重く大きい。作業は同時に本やノート、ファイルの山を動かしたり、あれこれのガラクタを引っ張り出す肉体作業でもあるので、この暑さには体力面でも厳しい。

そんな中で、中学校時代の生徒手帳が出てきたので、つい中を見てしまった。

開けるなり「わたしたちは、こんな人間になりたいな」という文が飛び込む。

生徒も 先生も 男の子も女の子も
正しいことは 正しいと
美しいものは 美しいと
ほんとうのことを 話し合いたい
困ったときは しかたがない
苦しいときは 誰かがやるさ
こんな気持ちをすてきって
みんなで 一人のことを考え
ひとりで みんなのことを思い
血のかよった 仲間になり
きょうを せいいっぱいくらし
誰も彼もが「生きていてよかった」
と言える 社会を作る。
わたしたちは
    こんな人間になりたい

名古屋市立城山中学校の1961年の生徒手帳だ。

あわてて高校のときの生徒手帳(何と物持ちがいいことか)を見ると、これまた冒頭に教育基本法の第3条までが掲げられている。
殆ど目頭が熱くなる思いだ。

実にぼくたちは戦後民主主義教育の申し子だったのだと思う。そしてそれを誇らしく思う。

2008年7月29日火曜日

木が気になる



無垢の欅のテーブルを見て以来、木材にはまり込んでいる。

歩いていても、運転していても、樹木ばかりが気にかかる。そして、どの木をみても、「あれを伐採したらどんな杢目が見れるだろう」などと不届きなことばかりを考えてしまう。

手元には、先日もらったカイヅカイブキと楠の小さな木っ端があり、その杢目と香りを楽しんで飽きることがない。それを掌に入れ、眺めたり嗅いだりしているだけで安らかな時が流れて行く。

やらなくてはならないことは多いのに、実に困る。早く木工の基本的技術を身につけて、小さなものからでもよいから、落ち着くきれいな板目のものに取り替えたい。

十分な時間がとれない今は、合間にゲリラ植樹と、使えそうな木材集め、その割れ止め処置、そして基礎技法の少しずつの学習。

2008年7月27日日曜日

クーラー問題

暑さにくたばっていた。いくらでも睡い。昼休みに頑張ってプール(何と水温も30度)に使って、ふらりふらり泳ぐと、どことなく身体がこの高温と高湿度になじんで来る感じがする。

それにしても付いて行けないのは、教室に入ると「24度、冷房」にエアコンが設定してあって、ガンガン冷やしている室内で学生は平然としていることだ。この数年になってようやく学生たちが可愛く感じられるようになって来た私も、こんな季節まで学期がある方に無理があるのだとは思いながらも、この温度設定には怒りを感じてしまう。第一、こちらが寒さに凍えてしまう。

「こんな温度設定を当然だと居直るなら、もう温暖化は問題だとか、フードマイレージについて考えようとか語る資格はないんじゃないか」と言うと、何人もが僕の方を睨みつけてくる。「これだけの人数が広くない教室に集まっているのだから暑いのは当然。暑ければ不快になり能率も悪くなる。君たちのいうところのアル程度は冷房をかけてもよいのではないか、というのなら、何度が適当か議論しようじゃないか」。エコ・テロリスト的挑発には反応なし。藤田省三のいう「安楽への全体主義」か。

そういえば東上線の温度設定もいかれている。ネクタイにジャケットの男達が定員の80%以上は乗っているときの設定なのだろうか。大部分の女性乗客は、冷房予防に肩から羽織れる薄い衣類を余計に用意している。問題は、この国にますます根深くなっている大勢順応主義か。

                       

2008年7月15日火曜日

杏の実


日曜に遠くに出かけた。その出先のスーパーで杏を見かけた。他の果物の値段に比べて可哀想になるほどの値がついている。懐かしさと美しさに惹かれて早速買った。傷みやすいので、都市部には出ないらしい。

以前、イタリア語を習っていたジョヴァンニGiovanniのところで、「さっき採ったばかりだ」と勧められたことを思い出した。窓から外をみると、たわわになった杏の樹が見えた。その時は余りのうらやましさに、すぐに手が出なかった。どうして日本の都市部ではもっと果実のなる樹々を植えないのだろうか。「その実が誰のものかが問題になる」「落ちた実の始末に困る」「争いになる」等々、すぐさまに聞こえてきそうな異論が思い浮かぶ。そういえば、隣の団地にある見事なヤマモモがあるのだが、今年は実が落ちもしないうちにきれいに片付けられていた。

2008年7月13日日曜日

いびつな頭

暑くなったので、以前に子どもの髪を刈るのに使っていたバリカンを自分の頭に使ってみた。久しぶりだったこともあって、刈り込む髪の長さを5ミリ、3ミリと調整するための櫛にあたる部品をはめるて使うのを忘れた。映画などで兵役に捕れれた若者や収監者がやられるシーンのように、髪が刈り込まれたスジが、瞬く間に見事に通ってしまった。我ながらびっくり。

そこはしかし歳の功(?)で、泣き喚きもせず、「さてどうしたものか」としばし思案した。額上から頭上にかけては既に禿げているので、モヒカン刈りというわけにもいかない。右半分だけというのも様にならない。西洋の坊さんスタイルにするには、刈り込まれた部分が上過ぎてこれまた格好がつかないし、突然に耶蘇教徒の真似でもあるまい。どんなデザインを考えても遊んでいるとしか思われない。まだ、給料を稼がなくてはならない僕としては、ヘアならぬ禿げスタイルで遊ぶ訳にはいかない。

そこで、あっさりと諦めて全面丸刈りにすることにした、スキン・ヘッドが右翼の専売特許の時代でもない。風呂場でカミソリを使って坊さんスタイルにそりあげてしまった。さっぱりした。ところが、鏡を二つ使って後ろから見える我が禿頭を眺めて呆れた。まったくいびつで、不格好。まるで白土三平の漫画にでてくるえげつない悪坊主のデコボコ頭といった案配なのだ。

どうやら僕は、坊主刈りにすれば自動的に、どこかのサッカー選手とか、ペットボトルのお茶屋のコマーシャルだかに出ている俳優の頭のようなものになることを、勝手に期待していたらしい。我ながらアホだった。とは言ってもアホな失敗をしたつけなのだから今更仕方ない。

僕に会う人がびっくりするかもしれないので、「少し思うところがありまして」とか、「今更未練がましくもしたくないので」とか、「これも床屋代を浮かせるためです」とか、「温暖化に対するアピールです」とか、せめて恐ろしがられないための台詞を考えておかなければなるまい。こう思っていたのだが、最初にこの丸刈り姿を見た我が連れ合いの曰く、「あら、随分すっきりしたじゃない」。今更、動じるふうでもない。

予め考えておかなければならないことは、どうやら、この頭の中味もその外形のようにいびつで歪んでいることを気取られないことあたりか。

2008年7月11日金曜日

奪えない時間、自分のものでしかない経験



岩田『現代の貧困』ちくま新書を、入門ゼミ(社会科学基礎演習)で8回をかけて読んだ。

若干の出入りはあったが、最後まで熱心に参加したのは10人の若者。彼らの真摯な問いかけに、ついぼくが喋りすぎてしまう傾向があったが、報告も討論も充実していた。幸せな時間だった。

例えば初回1章をとりあげた討論は、こんな調子だった:

<出された論点>

A.なぜ日本では貧困の問題化が10年遅れたのか?
B.ワーキング・プア、ニートが生まれた社会背景は何か?
C.日本のホームレスがおとなしいのはなぜか?
「苦しい」とは言っても自分の失敗を語っていない。
「恥」が原因か?
D.貧困は問題になっても、格差は問題にならないのだるか?
E.「総中流化意識」は日本だけにあったのか?
同じように高度成長のあった他国ではどうだったのだろうか?

<論点Eについての議論>

Kb:見て見ぬ振り、体裁屋といった国民的性格が原因ではないか?

O:イギリスなどは産業革命以降の階級対立の顕在化が、日本を比べると顕著だったのに対して、日本では池田勇人の「国民所得倍増論」のように、全員を一緒に持ち上げ、漏れる人がいないようにする「社会主義的」とでもいった考え方があったからではないか?

Kr:多くの人に貧困が見えなかったからではないか。(イギリスなどの)産業革命(以降の経済成長)は、長期的で漸進的であって、その中で格差が作られていったのに対して、日本の高度成長は比較的短期間になされた。その時期には、大勢の人は経済成長の方に関心が集中し、そこからあぶれる人を見ない傾向になったのではないか。

Kk:戦後の復興が一挙になされ、(生活を)上げることに多くの人の意識が集中し、下層に手が回らなかったからではないか。

Sk:「とりこぼしのないように」という制度でも、それでもこぼれた人はいる。その人たちを見て見ぬふりをした。
それは、貧しくなった人も言い出しにくい、恥ずかしいという意識があり、その人たち自身が声を挙げたり、主張したりすることが弱かったからではないか。

Ay;例えば生活保護の申請をしても、「兄妹がいるからダメ」といったように門前払いされた人を知っている。声を挙げた人はいた。しかし、政府や自治体の貧困についての認識が甘かったのではないか。貧困を問題にすることを制度が阻んだのではないか。

Ab:自治体が(生活保護申請を)受け入れないなどの対応をするときに、それは家族や身内の責任だというように押しつけてしまう。そうした行政機関の対応の仕方には「日本人の意識」といったものを利用するやり方があるのではないか。自治体や行政がただ拒否するだけなら却って反発がでてくる可能性もあるけれど、こういう「日本人の意識」といったものを使った対応のために、いよいよ声を挙げにくくなるのではないか。

2008年7月9日水曜日

デモをかけるにも値しない

まったくみっともないサミットが終わった。
2050年までに半減なんて数値目標としても大して意味のないことすら決められなかった。福田首相の点数稼ぎになるような映像も演出できない。先進国なる傲慢な自己規定をする国家政府の連中が、世界規模でのイニシアティブを発揮するような場面は作られなかったのではないかという感じがする。
札幌などでは、サミット批判派のちっぽけなデモを警察がよってたかって封じ込めたらしい。

http://j5solidarity.blog116.fc2.com/blog-entry-6.html
http://www.news.janjan.jp/special/0807/0807060326/1.php

民衆弾圧についてだけは確実に先進国である金持ち国の政府代表達に対抗してデモをかけた人たちを僕は尊敬するのだが、他方、サミットのようなタイプでの「先進国」主導演出の時代は終わりつつあるのではないかという感じがしてならない。



ツユクサが咲き始めた。実に美しい。

合歓の木



気がついたら隣の団地の合歓の花が咲き始めていた。このところの雨でせっかく咲いてもすぐにしぼれてしまっていて、かわいそうな感じもする。
豆科の木だそうで随分に高く伸びている。知人によると花の香りは良く、桃、それも水蜜に似た甘いかおりがするそうだ。花は高い所に咲いているので、小さい子どもの頃にでも木登りしてかおりを嗅ぎたかった。それとも「変なオジさん」になって早朝でも木登りをしてみようか。

 象潟や 雨に施西が ねぶの花

久しぶりのバレー

元気の出るものを見ようと、職場のそばの劇場でやっていたラ・ラ・ラ・ヒューマン・ステップス La La La Human Steps というダンス・グループの「アムジャッド」Amjadと題する作品の公演を見に行った。
「白鳥の湖」と「眠れる森の美女」かとかの20世紀初頭の「古典」にあったオリエンタリズムを、脱構築したとか何とか言っていたが、ダンスとして見ていると何ともウーンであった。大きなジャンプも回転もない。そんころに表現の物足りなさを感じた。自分もある種のオリエンタリズムにとらわれていたのだろう。

ライトの当て方を激しく変えることで、ダンサーの姿形や動きに違う印象を浮き彫りにするやり方は、ダンスの照明にはつきものでもあるし、禁じ手だとは思わない。しかしそれが過ぎると、バレエそのものの構造のおもしろさを照明の与える印象で誤摩化しているようにも感じられる。時折、得体の知れない円盤を上からたらしてきて、それに映像を映し出すのも、「おいおい、いい加減にしろよ」であった。ダンサーのお休み時間のためだったのかもしれない。

それにしても、1時間半近いぶっ続けの演技で、見ている方も疲れた。良かったのは中国出身のシュエン・チェン Xuan Cheng だった。一人だけ、頭を抜いて大柄の女性ダンサーは、他の女性ダンサーが小柄であったため、気の毒だった。

http://mv-theatrix.eplus2.jp/article/91350662.html

2008年7月8日火曜日

時計がなかったら

二学年で5人のゼミ。そこで2人が交互に休む。事前通知なし。
余程に面白くないのだろう。積み重ねが難しくなるから、いよいよ面白くなくなる。こちらもがっかりする。

前回出てこなかった一人に訳を聞いた。「朝寝坊です」。若い学生時代には僕もよくやった。そんな経験者が無断欠席に腹を立てるのはおかしなことだろう。しかし、気分が落ち込む。そこで別のことを考えた。

時計というものがなかったら遅刻もないではないか。時を計ることは昔からやられて来た。しかし、分刻みで大勢が動かされる時代は、つい最近になってからだろう。日時計もない時代のほうが人類には長かっただろう。江戸時代あたりはどうだったのだろうか。

秒まで刻むような時計などなかった時代の方が、生活の流れ方は落ち着いた人間に相応しいものだったのではなかろうか。

2008年7月3日木曜日

夏風邪

朝から頭痛。だるい。先日から少し肌寒く感じていた。動かないで休んだ。
少しばかりペーパーナイフ作り。

2008年7月2日水曜日

頭より手を動かす

どうも体調が良くない。
混みいったことを考えることが面倒になっている。

こんな時には体を動かしていると少なくとも気分が辛くなることは少ない。元気一杯という訳にいかないので、ピアノを叩いたり、先日木材点でもらって来た木切れを削ったりしていると気持ちにも宜しい。早速、ペーパーナイフもどきの物を作った。

2008年7月1日火曜日

続けられる「悪いこと」を一つ

子どもが生まれたときの挨拶に、「御陰さまで」と言う人がいると言って笑っていた人がいた。彼の曰く「俺の子どもじゃないぜ」。

今日は僕の誕生日だった。つくづく「御陰さまで」と思う。皆さんの御陰でこの歳まで大したこともなく(と思っているのはアホな僕だけかもしれないが)、生きて来ることができたと思う。沢山の人に支えられた来たことをありがたく思う。中には既に亡くなってしまった方もいる。感謝の伝えようもない。誕生日祝いなどは何もないので、親譲りのドケチが身に付いている僕は寂しくないと言ったら嘘になる。しかし、それでも誕生日祝いくらいは自分自身でできる。「酔っぱらいは嫌い」という連れ合いもいてくれる。

誕生日祝いに一つやった。30年前からいわばモットーとしていたことだ。「自分にできる悪いことを一つはやり続ける」こと。当初の数年は、元号を書かない、「済みませんね、覚えていないんです」といった抵抗。長期的に見ればまともでしかなく、良いことでしかないけれど、現在の社会的仕組みの中では「悪い」とされていることを、しかし、それが自分の力量、才覚でできるのならば、敢えて意識的に続けること。

そういうことをしていなくては、「右へ倣え」の日本社会では日常的にクソ秩序の維持加担者になり続てしまう。せめて日常的にそこから外れ、アリバイ作り/自己欺瞞と揶揄されようと、自分なりにできることをやる。

今日の夕方は、慌てて柑橘類の実生をいくつかの所に植えた。周りの生態環境からすると見当違い、不適切なことかもしれない。

30年前の就職時に植えた欅は、無事に育って4階からも緑を楽しませてくれている。その後に植えた楓は20年くらいは生育したが、遂に枯れてレてしまった。これまでも柑橘類は何度も試みたが途中で抜かれたり、折られたりして1mにも育ったことがない。冬の緑と食べられなくてもきれいな実を想像すると一・二本育てたいのだが。

こんなゲリラ的活動でウロチョロしていると、先日まで満開だったネジ花が一斉に「草刈り」で刈られてしまっているのに気づいた。仕事を請け負った園芸業者の人としては、いちいち,満開のネジ花などに構っていることはできなかったのだろう。そんな仕事の仕方しか頼めない仕組みをおかしいと思わなくなったら、やはりおかしいと思う。

2008年6月30日月曜日

落書き



腹が立つことばかりが多いと、より大きな問題よりも、つい身近な腹が立つことに文句が言いたくなる。事柄の重要性よりも、腹立たしさの鬱憤を晴らすことが大事になってしまうと言う転倒だ。疲れているせいか、大きな問題に立ち向かう気力が湧かない。

身近かというとキザに聞こえるかもしれないが、イタリアはフィレンツェのドゥオーモの日本人落書きには、ぼくの隠された国粋主義は大いに刺激されて腹が立った。僕はドゥオーモから目と鼻の先のサンタ・エリザベータ通り*番地にある、おそらく15世紀の建物の最上階に「お前がくればいつでも泊めてあげる」部屋がある。ドゥオーモの前は90年代にフィレンツェに時々通うようになっていつも歩くご近所だ。昨夏には、古いパンダ(フィアット600です)で、コルソ通りからサンタ・エリザベータ通りに右折し、有名な5つ星ホテルの前の小広場で方向転換して裏の小広場に駐車し、またオッキ通りを抜けてストゥディオ通りを左折、ドゥオーモの前を通ってチョンピ広場まで運転するなんてこともした。

という次第で、この事件には「世界遺産」破損という以前にアタマに来た。「市庁舎の窓から逆さ吊りにしてしまえ」とか、「外壁清掃の一年間無料奉仕活動だ」とか、ついカッとなってしまう。日本には千社札というものもあるではないか。デザインが悪い千社札を、アホなところに貼るほど野暮なことはない。千社札を断る寺社も増えているが、あれはあれで貼る方にも何がしかの緊張感がある。ドゥオーモの落書きには何の緊張感もない。しかも、最初から油性ペンを持って行っているというのだから、こりゃあ「市庁舎の窓から逆さ吊り」が相応しくはないか。

2008年6月28日土曜日

銘木なるもの

大勢のお客さんに来てもらえるように、大きなテーブルを作ろうとしている。きれいな天板を探しているのだが、木はそれぞれに個性があり、それぞれに美しく選ぶのに困る。そこで、一体この東京の木材市場にどんな木々が出回っているのかを、その概要だけでも知ろうと、延々と新木場まで行った。

まずは、到着するまでが大変だった。海なし県から都心を抜けて海まで出るのだから大変なのは仕方ないのだが、それにしても遠かった。次に呆れたのは、この世には銘木と称するそれ自体の希少価値で商品価格を張り合っている木材が山のようにあるという事実だった。ぼくは、ただ美しいこと、それが使われる場所に合っていること、使い方に調和していることばかりを考えていた。

それが、銘木店や材木店の多くでは、只々どでかいこと、姿形が奇抜で珍妙なこと、奇天烈であることだけが取り柄であるような木材が、「他には決してない」「こんなものは滅多に無い」という希少性だけが理由で驚くような値段を競い合っているのだ。それ自体は美しくも、調和がとれている訳でもないのに、一体、そんなものをどこで使うというのだろうかと思わずにいられないような珍材、奇材が威張りくさって鎮座ましましているのだ。

どんな木材でも、それは野山の大地、地面に生育していた樹々を人間が切り倒すか、それが生命を閉じることによって初めて人間が加工して利用する材料になったのものなのではないだろうか。生きていた樹々、その木目や歪みに刻まれた生育の印。それに接するだけでも利用する人間の気持ちは謙虚になり、今では材木と化した樹々を通して自然との営みに思いを馳せるのではないだろうか。銘木なる存在には、そうした謙虚さがどこにも感じられない。

2008年6月26日木曜日

上松技専


無垢材の大きなテーブルが欲しくて先日来探している。
その中で、当然のことながら材木屋さん、銘木屋さん、家具屋さんに行き、いろいろな板や木工作品に出会った。さまざまな木材、そしての樹々の表情の違いに圧倒されている。ともかくおもしろい。小さな皿や指物、そして椅子や棚だと自分でも作ってみたくなる。

そうしてあれこれ探していたら上松技術専門学校に出会った。2年間。木曽の麓だからかなり遠い。しかし、環境はいい。しかも教えてくれる内容は木工と木材工芸の全般の基礎である。こんなところで勉強ができたら良いとつくづく思う。とは、若者の学ぶ場を老人が占領するのは罪である。しかし、夏だけの集中講座とかで数年かけて学ぶことはできないだろうか。

http://www.pref.nagano.jp/xsyoukou/agegi/index.htm

2008年6月24日火曜日

ねじ花



気がついたらネジ花の季節になっていた。





図書館前の芝生の中に花盛りだった。


2008年6月14日土曜日

久しぶりの音楽


一年半ぶりにバッハ・コレギウム・ジャパンのブランデンブルグを聴きに行った。
直の演奏はやはり良い。テンポが早かったのは少し不満。間違えもせずこんなに早く弾けることを誇り合っているほどの感じ。第5番ではヴァイオリンがこの早さに抵抗していたようだ。
昨日、今日と25度をこす夏日となったらしいが、会場は冷房が効き過ぎて二階でも寒くて適わなかった。

この半年でどうも5Kgも体重が減っていることも影響しているのかもしれない。

2008年6月7日土曜日

年輪を刻むということ



無垢の天板の大きなテーブルがほしいと思う。大勢の人に来てもらい、そこで飲み食いし語り合えるようなゆったりと大きないテーブルである。歳をとるに従って自然が創り出したのものへの愛着が強くなっているのだ。

もう我々も60歳を過ぎているのだから、こうした贅沢も許されるだろう等と勝手な言い訳をしながら、探し始めた。案の定、困ってしまうほどに様々な樹木があり、しかも一枚一枚の姿形が違う。今日は和光の裏街道に面した「初雁」という木工屋さんにお邪魔して、色々な板を見せてもらった。実際に見ると写真では分からない表情の違いが分かってくる。一枚一枚が、後にも先にも自分しかないという個性を訴えてくる。写真見本を見ていたときには、単純に整った木目のものに惹かれていたが、節目があったり波打った光沢をもつもの等を見ているうちに私の注意の向きはまったく変わった。

http://www.hatukari.co.jp/furniture/goods/17.html

どれかに決めなくてはならないとしたら、当然に迷う。この世界でも多くのHPがあり、そこには数えれば何千という天板の写真が載せてあるだろう。そのすべてに会うわけには行かない。多くのものを見れば当然、「あれにしようか、これにしようか」の迷いが出てくるだろう。優劣の序列がつけられないさまざまな個性の世界。どうやらこれは出会いの世界であるようだ。そうであるならば心は自然に、この樹はいったいどこに生えていたのだろうか、人々にどのように眺められてきたのか、そしてどうして伐採され、どのようにしてこの板になったのだろうか。そんな一枚一枚と一本一本の人生と経歴を知りたくなる。「ああ、そうしてここにいるのですか」と、ここまで分かってから「そういう経緯なら私とここでであったことも分かります」と得心でき、「ではこれからは一緒に過ごして下さい」と言うことができるようになる。

その年輪、木目がただ面白いとかきれいだとかいうことだけでなく、そこに現れたさまざまな表情が分かり納得できたら、それが出会いというものになるのかもしれない。夏までにはあつらえたい。また週末が忙しくなった。

2008年6月4日水曜日

木を切る



今住んでいる団地に住むようになって25年以上になる。
約20年前だろうか、まだ殺風景だった団地の周りの植え込み部分に柑橘類の苗を植えた。冬から春にかけて食べるハッサクや甘夏の種を蒔いていて、それがベランダの鉢で育ったものだ。地面に降ろすとそれは随分に大きくなり、5年以上前から実をつけるようになった。何とレモンである。肥料もやらず、大して剪定もしないので実がならない年もあった。その間にも植え込みには丈の低いツツジ等が植え込まれていった。ツツジばかりの植え込みの中に3mにはなるレモンの木がある光景は、ちぐはぐといえばちぐはくだったかもしれない。しかし、自分が植えたこともあり、見るたびにそっと挨拶するような木であった。

それが根元からバッサリと切り取られていた。どこに持ち去られたのか、枝の一本、葉の一枚も残されていない。新しい切り株が無惨にこちらを向いている。それを見たとき、私の身体のどこかにバッサリと切り取られた感じが走った。野蛮。

一年前にも団地の隅に育っていた5mはあった大きな夏みかんの樹が切り倒された。あれだけの緑とさわざわと揺れめく枝、葉の輝き。それがバッサリと根元から切り倒され持ち去られてしまう。10年以上もかかって大きくなった木だ。それを一瞬にして殺す。後にましな木を植えると言う訳でもない。何とも野蛮なことで胸が打ちひしがれる。

2008年6月3日火曜日

ヘアー・スタイルの自由



今日は、教育実習の準備にかかわる2コマ特別授業をした。

「社会科は必要なのか?」、「社会科の授業で何が大切なのか」といった問題について、グループ討論を入れながら考えた。振り返ってみると予定した課題が2コマに納めるには多すぎた。しかし、学生諸君は実に真摯にぼくの問題提起を受け止めてくれ嬉しかった。時間枠の見当を間違えたのは失敗だったが、大多数に問題を受け止めてもらえただけでも全体として成功だったと思う。

ところが驚くことは授業の後にあった。男子学生がよって来て「ピンクのネクタイで教育実習の参観に行っていいですか」と尋ねてくる。へぇ! さずが若者!、しかし君にピンクのネクタイが似合うのかなあと内心思いつつ、「ネクタイして行かなくてはならないの」と聞くと、「そうしなくちゃならないらしいんです」と言う。「どうして?」と聞くと、「ちゃんとした格好で来いっていうことです」。6月の当地でネクタイでもあるまいと、つい「ネクタイの本家の欧米では、改まったときには蝶ネクタイらしいぜ」と言ってしまう。「それはないっすよ」と言うから、「つまり、何とかの一つ覚え。ネクタイでも何でもいい、”疑問を持たずに右へ倣え”、これが要求でしょう? そんなことで(子とも達の)自ら考える力を培って行くことなんかできますかという問題。悩んで下さい」と突き放した。

ところが、続いて女子学生がやってきて、「このアタマで行って良いですか」と尋ねる。僕はきょとん。「えっ! なぜ?」と聞き返すと、「染めていて、、、」と口ごもる。そう言われて見れば確かに少しこげ茶色がかった部分がある。「それは君の好みだろう、、、それに**学校の教師だって白髪を染めている人はいるんじゃないの?」と応えると、「黒い髪で来いって言われるらしいんです」とのこと。横で聞いていた男子学生が、「で、俺はこんななんで丸刈りにするしかないかなと思っているんですけど、どうも丸刈りもやばいらしいんです」と言う。見ると、これは明らかに「そんなに染めてご苦労さん」といった文字通りの茶髪。「すると、僕みたいな坊主頭だとまずいのか。少なくなったし、今更みっともないからバリカンで丸刈り、床屋代もうかせて一石二鳥だぜ」と僕。「いや、先生みたいのは一寸キモイとか、、、」と言う。

そこで、僕の答えはおよそ次のとおり:
「僕は”研究授業”でもこのアタマで行く。アデランスにもアートネーチャーにも世話にはならない。大学の教師の特権があるとしたら、敢えてそれを意識的に使う。それは特権がある者のいわば義務だと思うから。でも、君たちは弱い立場にいる。しかし、だからといってこんなことで画一化を迫って、黒髪を強要するのはおかしいことであること、それは忘れないで欲しい。今はそれしか言えない」。

実習生の服装や髪型でびくびくする学校現場には、今更ながらに暗然とする。学生の悩みに正面から応えられないことが疎ましい。

そんなやり取りの後、夕食が終わってTVニュースを見ているとローマで開かれたFAOの食料サミットの様子が映っている。見ると、あのベルルスコーニの頭が何と黒くなっているではないか。あの歳で、いつ生えたのだ! いつ生やしたのだ? 今夜は黒髪にうなされそうだ。

2008年5月31日土曜日

菅谷城址と丸木美術館



「厚生補導」というふざけた名前の行事の一日。今年は、1年生の学生たちと武蔵嵐山の菅谷城址と丸木美術館を見てまわる企画だ。
ぼくが言い出し、同僚二人に加わっていただいた。

学生さんには概して好評だったようだ。なんせ、前者では日本中世史の専門家Sさんが、菅谷館の城塞としての構造を実地に解説してくれるのだし、ホトトギス等がやかましいほどの緑の下を歩いて行った後者では、貸し切り状態でゆっくりと「原爆の図」を見ることができたのだから、これで不評だったら困る。

ぼくはといえば、「原爆の図」に全身で見いっている学生さんたちを見て、その若いひたむきな様子に感動した。

2008年5月26日月曜日

臨界点を越えたのか


昨日と今日、NHKスペシャル「北極大変動」を見ていて憂鬱になった。

何万年もの後の太陽の「爆発」は、余りに遠い先のことでもあり、いま現在の我々の日々の営みには影響しない。しかし、この10年も立たない間に夏の北極海の氷が4割も減り、このまま行けば今世紀の半ばには夏の北極海から氷原はなくなるとの科学者たちの予測には参ってしまった。

氷が薄くなった北極海では、海底の資源開発がやりやすくなって、天然ガス産出が急激に伸びているという。二酸化炭素排出はいよいよ拡大し、温暖化は加速する。これこそ clear and present danger (今ここにある危機)というやつではないか。

番組には、「高い賃金で、きっと私たちの子どもたちもここで働くでしょう」という海底油田基地で働く労働者や、「天然ガスを産出するだけでなく、一方で二酸化炭素を海底に封じ込めも進めている」という技術者、そして「今後、現在の埋蔵量の4倍を我々は手にする」と言ってのけるガスプロムの幹部が映されていた。

今日の夕刊によれば、G8環境相会合では、世界全体の温室効果ガス排出量を2050年には半減するため、「先進国は50%を大幅にこえる削減」するとの議長総括案に米国政府は反対した。ミャンマーの軍事政権もひどい。しかし、温暖化の現実を前にしても自らの政権基盤の利害を全世界を相手にふりまわす米国政府も、かなりひどい。NHKクローズアップ現代では、その米国では南部を中心に水の供給が危うくなっており、また今年だけで百以上の竜巻が起こり大勢が亡くなっていると伝えていた。

「後は野となれ山となれ」なのか。改装のなった勤め先の教室では、今日も学生たちが昼間から明かりをつけ、エアコンを使っていた。

2008年5月15日木曜日

サイクロンと大地震と



自然災害とはいえ、明らかに社会的要因から被害が大きくなっている。独裁的政権であるがための防災施策・インフラの脆弱さ。外国からの援助に対する拒絶や制限。ビルマでの巨大サイクロン発生には温暖化が影響しているだろう。四川への中国政府の素早い対応の背景には、チベット系自治地域であること、そして沿岸部と内陸部との大きな格差問題があるだろう。

被災した人々の姿を見るのは辛い。がれきに挟まれて助けを待っている子ども達の映像は、胸に迫ってくる。自分たちと同じ生身の人間がそこで苦しんでいる。何とかできないだろうか。これを惻隠の情というのかどうかは知らない。しかし、どうしてもそうした思いが湧いてくる。

思いがあれば必ず何かが実現できる訳ではない。しかし、思いがなければそれは実現できないことだけは確かだ。しかしまた、遠くにいて思うこと。それで一体、何ができるというのか。それは「何ができるか、どうすれば良いか」を考えることだけなのか。ぼくは二つのNGOの会費を払っているだけの名目会員だが、改めて居住まいを正している。

秋ケ瀬公園のハリエンジュ(ニセアカシア)の花の盛りは終わった。この木は明治期に日本へもたらされ、河川の周りなどで繁殖したそうだが、根が浅いらしい。そのため数年前の集中豪雨では、たくさんが根こそぎされて流され、橋などに被害をもたらしたという。

2008年5月7日水曜日

豚ニラ大根



連休が明けて研究室に行ったら、すっかりハナミズキは終わっていた。窓からは緑ばかり。
近くの鴨川というどぶ川の土手では、桐の花が満開になっていた。体調も良くなったので、そこいらを歩き回りたいのだが、引越の積み残しや、病気で休んでいる間にたまった仕事が山積している。

新鮮なニラが出回り始め、春の大根も安い。そこで一つ鍋で作る突貫料理を紹介する。

用意するものは、よく洗った大根、豚の薄切り、ニラ1束、生姜や長ネギ、植物油かごま油、そして醤油。大根と豚肉の割合は、大根半本に豚200グラムといったところ。これは中華風の料理で、中華鍋一つでやる。僕は家庭で直径33cmのものを使っている。
 
まず大根を3~5cmくらいに輪切りにし、それを縦半分に切ってカマボコ状にする。このカマボコ状大根を伏せ、その縁の円周から半円になった切り口の中心(扇の要)に向けて、つまり大根の縦方向に包丁を入れざくざくと薄切りしていく。皮は剥かない。切り口の扇が70度以下になると切りにくくなるが、要は同じ位の大きさと厚さに切れればよいので、厳密に考えない。豚肉は食べやすい大きさに切っておく。脂身が気になる人は取り除いておく。

ここまで準備ができたところで、鍋に油(できたらゴマ油)をひき熱する。熱する間に生姜の薄切りか長ネギの小口切りをつくって、その適当量を熱くなった油に入れて風味をとる。風味をとった後の生姜やネギは取り出しておいたほうが仕上がりは上品になるが、忙しい時は取り出さずそのままにして次に進む。豚薄切りを入れ、直ちに醤油を適当量加え、肉にしっかり味付けする。

醤油が焦げつく前にどばっと大根を入れ、大きく混ぜはじめる。強火。原則として醤油は追加しない。大根から水分が出てくるので焦げることはない。きちんと混ぜないと大根への味つきにむらができてしまうので、ひたすらにワサワサと大きく混ぜる。大根がしんなりしてきたところで、ニラをザクザク切ってドバッと加える。ニラが少ししんなりしたらできあがり。ニラに余り火をいれるとおいしくない。この間ずっと強火。好みに応じてごま油を足して味を加減する。

大根と肉の用意ができたらあとはひたすら炒めるだけの単純料理。要領よくやれば20以内にできあがる。

2008年5月6日火曜日

オナガアゲハ



まずまずの連休で身体も随分に休まった。筋力トレーニングもそろりそろりと再開した。

久しぶりに近所の市立図書館まで、貸出し期限をこえてしまった(ご免なさい)本を返しに出かけた。病いで休んでいたときに読んだ本、佐藤亜紀『ミノタウロス』(2007年、講談社)、アッティラ・チャンパイ編、ディートマル・ホラント編、戸口 幸策/リブレット対訳、畔上 司/本文訳『名作オペラブックス1・モーツァルト.フィガロの結婚』(1987年、音楽之友社)など。

前者は、良く書き込まれていて一気に読ませる作品だった。しかし、主題は暴力の肖像とでもいったところ。病身には何とも後味が良くなかった。

後者は、実に楽しかった。まあ、大好きな人についての噂話を聞いている楽しさといったところか。しかし、こうした大傑作が相手だと、人はついおしゃべりの度が過ぎてしまうのだろう。天使を狂言回しに登場させる昨年だか一昨年だかのザルツブルグ音楽祭での演出は、あれこれひねり回しすぎて妙なことになってしまっていた、、、そんなことを思い出した。

図書館へ行くまでの団地の通りでは、マロニエの花が盛りだった。こういうバター臭い樹はこの国では好きになれない。しかし、若葉は輝くばかりで、少しクリームがかった白い花がずっしりと咲き誇っているさまは、それなりに見事という他はない。立ち止まってぼんやりと花を眺めていると、日差しを受けた中をオナガアゲハが何頭も飛びまわっているのに気づいた。つい孵ったばかりだろうか、まだ小型だ。あわててデジカメを向けたが、その楽しげに飛び回る様子を捉えることはできなかった。

2008年5月4日日曜日

新緑



悲しいことがあっても、自然界は移り変わって行く。今年は早く春が過ぎて行く感じがする。学内の緑が滴るように美しい。なぜ緑が美しく感じるのか。そんなことは考えずに、ただひたすらに緑を楽しんでいる。

2008年4月28日月曜日

別れ


土曜午前中、気持ちよく暖かで穏やかな日差し。体力も回復してきた感じがするので、数週間ぶりにN農協直販所に野菜の買出しに行った。

トマトやナスなどの野菜の苗も売り出していて、いつになく長蛇の列。帰宅するとたったこれだけのことなのに、疲れがどっと出てきた。メンタイコ・スパゲッティに買ってきたばかりのカキ菜を軽く炒めたもの。食休みしていると電話。

何と電話はイタリアはFのInesから。Ilaresが今朝亡くなったという。10年前にF近郊でのブドウ摘みで知り合って以来、Fに行けばいろいろと世話になってきた友人だ。4年前にALSに罹り、2年前に気管支を切開して呼吸器をつける生活をおくっていた。昨夏、ようやく見舞いに行くことができた。「来春には来れない。でも、また会うまで元気で」と言って別れた。最後に彼が言ったのは、「運転はTのほうがうまいから彼に任せろ」というInesへの軽口だった。

覚悟はしていた。しかし、辛い。Inesは「Ilaresはもういないのよ」と言った。Fに想いを馳せるとき、僕はいつものように心の中でIlaresと会話していた。胸に哀しさがこみ上げてくる。

2008年4月26日土曜日

きれいな眺め



ようやく研究室の引っ越しが終わり、窓の外を見るとご覧のとおり。
おそらくこの季節は学内でも最も美しい外の眺めが楽しめる部屋だろう。
もっとも、この眺めを楽しめる机までたどり着くには、まだ段ボール箱の迷路を通り抜けなければならない。

2008年4月24日木曜日

浦所のケシ



実は去年の写真。しかし、今年の春は早い。雨の日も多い。撮らないうちに見えなくなってしまうかもしれない。そこでアリバイ作りに載せておく。

豚キャベツ   作って食べよう(その10)

ブログを書いている時間があるなら、その分は身体をやすめてさっさと復帰してくれろと叱られた。
そこで、以前に書いた出来合いの文章を載せる。
野菜を食べてくれ! そんな思いで書いた。濃く味付けしたブタの焼き肉を刻んだキャベツにドバッとのせてワサワサ食べるものだ。新キャベツが出回るこの時期には良い。

所要時間20分。下準備と調理本体からなる。後半の調理はそのまま食事につながる。

<用意するもの>
A)ブタ薄切り200gくらい
B)キャベツ6枚くらい(小さなキャベツなら1個でも良いか)
C)ショウガ、ニンニク 一かけずつ
D)豆板醤、味噌、醤油、味醂か酒、砂糖など好みの調味料

<下準備>

1)キャベツを適当に千切りする。適当枚数を洗い、固い部分をとり、ひたすらに千切りする。巾は好みで、まあ5ミリから1cm位か。
大きなボールか、各自の食器(ラーメンやうどん用のどんぶり程度が良いね)にどっさり分けておく。

2)ショウガとニンニクはみじん切り。

3)肉は食べやすい大きさに2つか3つの切っておく。

4)Dの肉味付け用の調味料を肉の量に応じて適当量を混ぜておく。

<調理本番>

下準備ができたら調理して食べるまでの時間は間もないので、この段階までには飯が炊きあがっていて、いつでも食べられるようにしておいてほしい。

5)フライパンか深鍋、中華鍋などに油をしき、2)を軽く炒める。

6)良い香りがたったところで、素早く3)と4)を一挙に入れ、強火で肉にしっかり味付けする。

7)味付けされた肉を熱いうちに、1)の上にかけザックリ混ぜる。

たったこれだけ。
肉の熱と濃い味でキャベツはしんなりしてくる。ドシドシ食べる。飯も捗る。
キャベツの量が少ないと肉炒めといった感じになり、肉が少ないとキャベツ・サラダに豚のトッピングといった感じになる。両者の割合は何度か試して自分の好みでどうぞ。
肉の味付けも、豆板醤の代わりにタバスコ、ウースターソース、カキ油など、自分の好みで試みると良い。
しかし、使う肉はブタが良い。牛では脂が固まりやすい。トリだと強い味付けはやさしくない。

この調理は中華風だけれど、合わせる酒はビールでも焼酎でもいいでしょう。

2008年4月22日火曜日

名古屋高裁の派兵違憲判決

注目される判決が、4月17日に名古屋高裁で出された。
「自衛隊のイラクでの空輸活動は憲法違反」、「平和的生存権は憲法上の権利」とはっきり認める判決が出たのだ。

この種の派兵差し止め訴訟は全国でかなり起こされて来た。しかし、派兵の違憲性を確認しろとか、派兵を差し止めろとか、派兵による損害を賠償しろとかいう形での訴訟は、現在の日本の訴訟制度では無理がある。のみならず、今の裁判官のあらかたは、こうしたもろに憲法問題に関わる提訴については、法廷でまともな審理はしないと撥ね付けたり、逃げ回るのが圧倒的多数だ。

判決で勝てなくても、公判の過程で問題を明らかにし、多くの人に訴える手がかりがあるならまだしも、そんな見通しもないのなら、こうした提訴は人々の善意の力を浪費することになる。そう僕は考え、この種の差し止め訴訟に加わることを求められても断って来たし、意見を求められればこのように言ってきた。

僕が予想したように殆どの派兵差し止め訴訟は、実質的審理もされないまま敗訴した。ところが、今回の判決である。当然というべきか、判決主文では完敗している。ところが、裁判所は判断理由のあらかたを使って派兵の違憲性と、平和的生存権の権利性について明言しているのだ。被告の国は勝訴しているので上告できず、「敗訴」した原告も上告しないから、この判決は確定する。

少し僕は反省した。「こういうこともある。どうして可能になったのだろうか。どういう効果があるだろうか」などなど。

判決をまとめた青山邦夫裁判長は、この3月末で裁判官を辞しているという。派兵を支持する側からは、「最後っぺ」判決という非難もあがっている。昨年も違憲判断をした裁判官が判決後に定年を残して退職している。考えなくてはならないことは色々とありそうだ。

なお、判決の原文は、次のサイトでpdfファイルで読むことができる。長沼判決ほど長いものではない。多くの人が読んでほしい。

http://www.haheisashidome.jp/hanketsu_kouso/

判決要旨のpdfファイルは次で見ることができる。

http://www.news-pj.net/siryou/pdf/iraku-nagoyayoushi_20080417.pdf

全国の弁護士達もこの判決を肯定的に評価している。たとえば、日弁連会長の声明は次で読める:

http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/statement/080418.html

2008年4月21日月曜日

脳みそは入っているのか

4月初めにインフルエンザ(おそらく旧型か在来型)を引き込み、それ以来、忙しさのためになかなか抜けなかった。休んでは動き、動いては休むの超低空飛行。ところが先週になって頭痛かひどくなって来た。頭を横にしていないと辛い。特に後頭部からてっぺんにかけてが締め付けられるように重く痛い。この週末はひたすら横になっていた。それでも日曜は朝から辛い。

連れ合いが心配してくれて、「急患」で近くの病院へ行くことにした。休みなのに親切に対応してくれる。青息吐息の僕の話しを聞くと医者は、「じゃあCTを取りましょう」といとも気軽に言う。生まれて初めてのCTなのでわくわくする。これで自分も現代医療技術の恩恵を蒙ったわけだなどと能天気な充足感にひたる。

しばらくして結果がでてきた。医師が説明してくれる。「オオッ、これが脳みそか。ちゃんと入っているではないか」。感動していると連れ合いの曰く、「入っているのが脳みそかどうかは分からない」。